日誌

「あいまいな」vs「美しい」

 ノーベル文学賞作家の大江健三郎さんが亡くなりました。もう一人のノーベル文学賞作家に川端康成さんがいますが、この二人の授賞式での講演が対比されます。大江さんの「あいまいな日本の私」は、川端さんの「美しい日本の私」を意識し、批判的に書いたようですが、ここでどちらかの立場で私的な意見を書くのは控えます。突っ込むと日本の特殊性や歴史的価値観の論争になってしまいますので。興味をもった人は二人の講演が新書で読めますので読んでみてください。どう読み取るかは人それぞれですが、言外の意図も読み取るとなると難しいですね。

 「あいまい」は、普通いい意味では使われませんが、客観的に定義できる言葉です。逆に「美しい」は、普通悪い意味では使われませんが、主観的な言葉で客観的に定義できるものではありません。日本語には、世界的に見てあいまいな表現が多いと言われますが、「YES」「NO」のどちらともとれる言葉は、外国人にとっては悩むところでしょう。例えば「大丈夫です」は、「けっこうです」と同じく肯定的意味と否定的意味の両方で使われます。「YES」「NO」をはっきりさせず、相手にこちらの意図をくんでもらうことを託しています。あいまいな表現には、相手に不快な思いをさせてたくない、傷つけたくないという、日本人の「思いやりの心」が詰まっているのです。「はっきり言うと角が立つ」という表現がありますが、以前にブログで書いた聖徳太子の憲法十七条の「和をもって貴しとなす」が国民性になっているのが日本なのです。ただ、他にも「主語がはっきりしない」や、「程度が不明確な言葉が多い」など、ビジネスの場では問題となるあいまいさが日本語にはあるので、具体的な表現に言い換える必要があります。「すぐに」「十分な」「処理する」などは程度が不明な言葉の例です。     

 日本は、幕末に開国してから西洋列強に追いつき追い越せと、殖産興業・富国強兵策をとりました。その際に、外国の製品が「舶来品」としてもてはやされ、日本のものは低く見られ、多くの文化遺産が外国に流出しました。日本の文化の価値を認め、尊重したのは皮肉にも外国人でした。そうした物質的に目に見える日本のよさだけでなく、日本人のマナーや礼儀正しさが、スポーツの国際試合での会場やロッカールームの清掃、そして今回のWBCでの佐々木朗希選手のチェコ選手へのデッドボールへの対応など、広く海外に報道されて称賛されています。

 「令和」は、英語で「ビューティフル=ハーモニー」と訳されますが、「美しき調和」と言い換えたとき、スマートに調和に至るために「謙譲の美徳」という言葉が思い浮かびます。「生き馬の目を抜く」グローバルな世界で勝ち抜くためには、甘いことは言っていられないのかもしれませんが、多面的多角的に日本のよいところを捉え、独りよがりになることを避けつつ、学校という場で日本のよさを伝えていきたいと考えます。