日誌

ごんぎつねと読解力

 昨年12月に「PISA2022の結果概要(日本)」が報道されましたが、それによると、日本は数学的リテラシー(1位/5位)、読解力(2位/3位)、科学的リテラシー(1位/2位)の3分野全てにおいて世界トップレベルとなりました。〔( )の左側はOECD加盟国中、右側は全参加国・地域中における日本の順位〕この結果については、様々な分析がなされていますが、手放しでは喜べないようです。共通テストはかなり読解力が求められるようになってきていますが、高校では新しい学習指導要領の下、今までの「現代文」という科目がなくなり、「論理国語」と「文学国語」の選択となりました。それに対して、文学者や国語の教員らからは、文学に親しむ機会が格段に減るのではないかという批判の声が多くあげられました。どちらも必修なら問題とならなかったと思いますが、実用的な文章の読解力は中学生までで十分で、高校生はやはり思考力を養成するような、深い内容の文章の読解でいいのではないかという意見があります。契約書やマニュアルが理解できないようでは困るのですが、それは高校でやるべきことでしょうか。ただ、国語力の向上はすぐに達成できるものではありませんので、生徒の実態に合わせて内容が柔軟に変えられるように、「論理国語」と「文学国語」は、同じ教科書の中で学校の実態に合わせて配分を変えられるようにはできなかったのでしょうか。義務教育において国語は算数と並んで最も重要な教科であり、時間を削ってはいけないと思います。全ての学習の土台となるのが母語の習得です。「読む」「書く」を繰り返す訓練を、小中学校ではしっかりやってほしいと思います。

 皆さんは、小学生の時に「ごんぎつね」という話を国語の時間に学習したことを覚えていますか。この童話のあらすじは、次のとおりです。いたずら好きなごんという狐が、兵十という男の獲ったうなぎや魚を逃していました。ある日、兵十の家で母の葬儀が行われているのを目にして、魚が病気の母のためのものだったことを知って反省し、罪滅ぼしに毎日栗や松茸を届けましたが、兵十にいたずらに来たと誤解され射殺されてしまいます。そして、誤解に気付いた兵十は泣きます。「ごんぎつね」だけではないのですが、昔話を国語で扱う時は子どもの読解力以前の問題で苦労するようです。兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があります。教師が「鍋で何を煮ているのか」と子どもたちに尋ねると各グループで話し合った子どもたちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたのです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている。単なる文章の読み間違えは、国語の練習問題と同じで、訂正すれば正しく読めます。でも、人の心情へのごく基本的な理解が欠如していると、本来間違えようのない箇所で珍解釈が出てきてしまうし、物語のテーマ性や情感をまったく把握できません。以上は、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を書いた石井光太さんのお話から引用しましたが、他にも自分の感情や考えを言葉で説明できない子どもが増えているということで、感情のグラデーションを言葉で把握できないと、大人になってからも様々なトラブルを起こしがちと警鐘を鳴らしています。感情を適切にとらえ表現する国語力は、社会のなかで自分と他者が心地よく生きていく力と密接に結びついています。皆さんが生きているこの世界の事象と人の心情を適切に表現するためには、様々な言葉が必要です。どうか国語を大事にして、しっかり勉強してください。