日誌

常識と非常識が逆転する日

 今日5月29日は、語呂合わせで「幸福の日」らしいですが、幸福について書こうとすると、かなり長文になりそうな嫌な予感がするのでやめておきます。
 というわけで、今日は当たり前と一般に思われていること、つまり常識を疑うことについて書きます。ユーチューブにビジネス書をボイスコミックで紹介するものがあるのですが、先日見たものに「ニュースは見るな」というものがありました。なぜ、ニュースは見ないほうがいいのでしょう?私もニュースは同じものが飽きるほど繰り返されるし、肝心なことはテレビ局に都合が悪いのか報道されないことも多いし、時間の無駄と思うことが多々あります。週末に1週間の主なニュースをまとめて見るだけで十分な気がします。ニュースは報道する価値があるからニュースになるのではなく、視聴率がとれるものをニュースにするという側面があります。コロナの報道も視聴者の不安を煽ったほうが視聴率がとれると言われました。ニュースの中で本当に報道する価値のあるものは、果たしてどれくらいあるのでしょう。若者の犯罪の増加や凶悪事件の増加、高齢者の事故の増加、外国人犯罪の増加などは、ニュースによって間違ったイメージが作られたものです。「ニュースを見た(読んだ)ほうが世の中のことがわかるからいい」という常識や思い込みを、もたされてはいませんか。
 「重役の7割が賛成するプランは時すでに遅く、7割が反対するプランくらいでやっと先手をとれる。」と松下幸之助さんは言っていますが、独創的発想、斬新なアイディア、これらは世間の常識を裏切って生まれてくるということですね。逆説的ですが常識の範疇を超えたアイデアを出すためには、まず常識を知り尽くさねばなりません。そのために学校は大事です。社会の常識を学ぶところですから。
「本当の意味で勉強するということは、常識を学ぶことではない。常識を知り、そこから外れてもいいということを学ぶことである」と言語学者の外山滋比古さんは言っています。
皆さんが、当たり前と思って少しも疑っていないことが、世の中にはたくさんあると思います。身近なところで何があるか、考えてみてください。そして、それが当たり前でなくなった先には、どんな社会が待っているのでしょう。