日誌

ロボット考(後編)

 さて、今日は昨日の続きということで、現実のロボットと今後のロボットについて書きたいと思います。現在、身近なところでロボットというと、SONYのペット型ロボットaibo、ホンダのASIMO、ソフトバンクのPepper、お掃除ロボットのルンバなどが有名ですね。自動車業界を筆頭に工業用ロボットは、日本全国で活躍しています。スバルの工場見学で見た人も多いと思います。今は、調理用ロボットの開発も進んでいて、近い将来、自宅でロボットが料理を作ってくれる日も来そうです。介護用ロボットも開発が進んでいます。介護は体力勝負で腰を痛めやすいので、少ない力で人を移動できるパワースーツの開発が行われていますが、まだ実用化には課題があるようです。家電がしゃべるようになって久しいですが、翻訳機の進化も著しいので世界中に旅しても、人間同士のコミュニケーションだけでなくロボットとの意思疎通もできるようになるのでしょう。ここまでだとロボットの発達でバラ色の未来が広がっているように思われますが、実は大きな問題もあるようです。SF作家アイザック・モシエルによって書かれた「ロボット三原則」というものがあります。それは、

第1条:ロボットは人間に危害を与えてはならない。 ...

第2条:ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。 ...

第3条:ロボットは前掲第1条及び第2条に反する恐れがない限り、自己を守らなければならない。というものです。

石ノ森章太郎先生の「人造人間キカイダー」では、機械が自らの意志で善悪を判別し、その場において最善の行動をとる事を可能とする良心回路が組み込まれていました。それが不完全だったためにキカイダーは苦しむわけですが、より人間に近いわけです。ターミネーターなどでは未来の地球で人間とロボットの戦争が描かれています。「ロボット三原則」に則ってロボットが作られていれば、そんなことにはならないはずですが、兵器としてロボットを作るようになれば、原則は無視されるのは、火を見るよりも明らかです。

 現在、自動車の自動運転技術が進んで、テレビで盛んに宣伝されていますが、完全自動運転には重大な障壁があるようです。以前に倫理に関するもので「トロッコ問題」について書きました。暴走トロッコをポイント切り替えで、5人と一人のどちらを助けるかの判断です。これと本質的には一緒ですが、自動運転の車に対向車が迫り、ハンドルを切らねば正面衝突するシチュエーションで、右には幼稚園児、左にはお年寄りがいた場合、判断を機械に委ねられるのかという問題です。もちろん、残酷ですが年齢の若いほうを助けるというふうにプログラミングされているとしても、実際の年齢はわかりませんし、他人か自分の身内かという選択も考えられます。機械に判断を委ねると、機械を作ったメーカーに損害賠償が求められることになってしまうので、最後の判断は人間がしなくてはならないようにセッティングされると考えられます。ですから、車の人工知能から「どちらによけますか?」と聞かれて躊躇しているうちに正面衝突して自分が死ぬということもありえます。ロボットが発達して、人間が肉体労働から解放されて筋力が衰えたため、外骨格となるようなスーツを人類が着ている未来を描いたSFがありましたが、考える、判断するということまで機械に委ねるようになると人間の存在価値はどうなるのでしょうか。「人間は考える葦である」とパスカルは言いましたが、人間が人間であるために、どんなにロボットが日常生活に入ってこようとも、自分で考える力というのを培う努力を怠ってはいけないと思います。皆さんも、本校での生活中はもちろん、卒業後も「思考・判断・表現力」を磨き続ける努力をしてください。