日誌

カノッサの屈辱

 1077年の1月25日、「カノッサの屈辱」と呼ばれる世界史上の有名な事件がありました。それは教皇グレゴリウス7世に破門されたドイツ皇帝ハインリヒ4世(のちの神聖ローマ皇帝)が、破門を解いてもらうために、北イタリアのカノッサ城の門前で、雪の中、裸足に粗末な修道衣で3日3晩断食と祈りを続け、ようやく許しをもらったという史実です。日本人には、理解しづらいと思いますが、キリスト教世界では、破門されることは社会から抹殺されるに等しいことなのです。ヨーロッパでは、現在でも「強制されて屈服、謝罪すること」という意味の慣用句として「カノッサの屈辱」という言い方があるそうです。「カノッサの屈辱」は、結構記憶に残るものらしく、日本でも同名の教養風バラエティー番組が1990年ころにありました。というわけで、今日は「お詫びの日」だそうです。

 皆さんは、すぐ謝るほうですか。それとも意地を張って謝らないほうですか。「でも」と「だって」が口癖ですか。「日本人は、すぐ謝る」と外国人から言われますが、それは、「和を以て貴しとなす」の精神が聖徳太子の時代から脈々と受け継がれてきているからなのでしょう。外国だと、先に謝ったほうが負けみたいな文化もあるみたいですからね。今の子どもはケンカをしなくなっている、仲直りが難しいとか言われていますが、皆さんはどうですか。ケンカしてかえって仲良くなったという経験はありますか。

 阿部サダヲが謝罪のプロを演じた『謝罪の王様』という映画が2013年にありましたが、こんな映画がヒットするのは日本くらいでしょう。お詫びの手土産として『切腹最中』がヒットしました。これも洒落がわかる相手でないと、怒りに油を注ぐことになると思いますが。お詫びに必要なのは、やはり「真剣さ」と「誠実さ」と「心からの反省」でしょう。それがどれだけ相手に伝わるかに尽きると思います。本校の校訓「誠」は、やはり大事ですね。私も管理職になって、外部の人や保護者、上司など何回お詫びをしたかわかりませんが、お詫びをすることは、成長することと同義だと思います。お詫びと反省はセットですから。反省なしに形だけお詫びして、心の中で舌を出している人は成長しないと思います。理不尽なことに対するお詫びでも、そこから何かしら教訓を得ることはできます。何事も捉え方次第ですね。子どものうちはいいですが、大人になるといくら謝っても改善が見られなければ、相手にされなくなりますから気を付けましょう。