日誌

2023年6月の記事一覧

ぜひ聴いて、読んでみて

 今日は「ビートルズの日」だそうで、最初で最後の来日を果たした1966年6月29日が記念日となりました。当時人気絶頂のイギリスのロックグループ「ザ・ビートルズ」(The Beatles)が羽田空港に到着した様子は、今でもテレビでよく見られます。翌日から東京・日本武道館で3日間5回の公演を行ったわけですが、学校をさぼってかけつけた高校生ら6520人が警察に補導されました。生徒の皆さんは驚くと思いますが、それくらい当時の若者に大きな影響を与えたわけです。ロックは不良のするものというレッテルを貼られたことも、皆さんには想像できないでしょう。「Help!」「イスタディ」「レット・イット・ビー」などは、皆さんもどこかで聞いたことがあると思います。私は、中学生の時に担任の先生がギターを弾いてクラス全員で「イエスタディ」を歌った思い出があります。1970年代に入ってからビートルズの曲が音楽の教科書に載るようになり、1970年代後半から1980年代にかけて、音楽教育において重要なアーティストとして扱われるようになったようです。ほかにも古典的名曲がたくさんありますので、ぜひ聴いてみてください。
 今日は『星の王子さま』の日でもあります。作者のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの誕生日です。1999年(平成11年)のこの日、神奈川県箱根町に世界で最初の記念館「箱根サン=テグジュペリ 星の王子さまミュージアム」がオープンし、記念日が設けられたそうです。「星の王子さまミュージアム」の開館はサン=テグジュペリの生誕100年を祝した世界的な記念行事の一環として企画されたもので、同館ではサン=テグジュペリの写真や手紙、愛用品の資料展示などが行われたそうです。「星の王子様」の中で、最も有名な文は「心で見なければものごとはよく見えないってこと。 大切なことは目に見えないんだ」でしょう。あと、「星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているからだね……」「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね・・・」などは、スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」の主題歌「君をのせて」を聞いた時に、頭に浮かびました。有名だけれども、読んだことがない本というのはたくさんありますが、この本は短編なので時間はかかりません。興味をもった人は、ぜひ読んでみてください。

外国由来のモノはどれくらい?

 今日は、貿易の日だそうで、通商産業省(現:経済産業省)が1963年に制定したそうです。皆さんは、中学校までの歴史で勉強した安政の五か国条約を覚えていますか。1858年に日米修好通商条約を始めとして、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと結んだ一連の通商条約です。1859年6月28日、江戸幕府がこれらの5ヵ国との間で結んだ友好通商条約に基づいて横浜・長崎・箱館(函館)の3港を開港し、自由貿易を許可する布告を出したことから貿易の日となりました。しかし、これらの大きな問題点は、不平等条約だったことです。高校入試でもよく出る①領事裁判権を認めたこと、②関税自主権がないこと、③片務的最恵国待遇(ロシアを除く)です。この撤廃のために明治政府は、大変な苦労をしました。また、この条約は天皇の許可(勅許)が得られないまま結ばれたことにより、安政の大獄や桜田門外の変(井伊直弼の暗殺)などの事件を引き起こすことになりました。(日本史の授業みたいになりそうなのでこのへんでやめておきます)            

 日本は外国と様々なモノ・サービスの取引を行っています。多くの場合、それでお互いに利益を得るわけですが、取引総額が不均衡になると外交問題に発展する場合もあります。日本とアメリカとの戦後の貿易摩擦の歴史は長く、「ジャパンバッシング(日本たたき)」という言葉も生まれました。また、特殊な輸出品がある国は、それを外交上優位に立つためのカードに使う場合もあります。最近だと中国のレアアースの輸出規制が、それに当たります。日本は、資源を輸入して付加価値を高めた製品を生産し輸出して、外貨を稼ぐ「加工貿易国」ですから、資源の輸入リスクを減らすために多くの国と貿易しています。しかし、一部の国に産出が偏った資源はどうにもなりません。ただ、日本は資源がない分を補うため、持ち前の技術力によって製品だけでなく新しいエネルギーの開発を進め、世界が驚く成果をあげています。近い将来、他国に依存しないエネルギーが確保できるのではと期待しています。国同士の安全保障は、もとは戦争を避けるためのシステムでしたが、今は「食糧安全保障」や「エネルギー安全保障」など戦争に至る前の段階が重要になってきています。「食糧安全保障」には、穀物などだけでなく水も重要です。他国に多くを依存していれば、「食糧」と「エネルギー」は国民の生死にかかわる問題になります。SDGsばやりの昨今ですが、今、皆さんの身の回りにあるモノは、どこから来ているのか調べてみてください。そして、それがどんな人々によってどのように生産されているのかを知ってください。(政治経済の授業か?)

試験って、ホントに・・・

 今日から1学期の期末考査が始まりました。中間考査の結果を振り返り、しっかり準備ができたでしょうか。小学生になってから、たくさんの試験を受けて来て、これから進学したり就職したりしても試験を受ける機会は、まだまだあることでしょう。自分の努力を「見える化」する機会が試験ですので、前向きに取り組んでください。試験には、社会で必要な「相手の意図を読み取る力」の練習という役割もあります。試験のヤマが当たるというのは、当てずっぽうではなく、しっかりと授業を受けて、先生の意図(どこが重要か)を読み取れるから当たるのです。問題には、必ずねらいや意図があるので、それがわからなければ解答以前にアウトです。小論文や面接などは特にそうですね。私も試験については、いろいろ思い出があり、準備が十分できずに試験を受けて、単位を落とす不安に怯えたこともありました。ですから、白紙の答案のまま時間切れになってうなされる夢を何度も見ています。今日は試験に関する話を三つ載せました。皆さんの心に残るものが一つでもあればと思います。 

 仕事や人生一般でがんばることは大切だが、「幸せをキャッチできるかどうか」は、脳科学的に見ると、その人の努力の総量だけでは説明できない。伝説として、松下幸之助さんが就職の面接試験で「君は運がいいのか?」と聞いたという話がある。それで「運がいい」と答えた人を採用したというのである。松下幸之助自身も「自分は運がいい」と思っていたらしい。 

 「ちびまる子ちゃん」で有名なさくらももこさんが、漫画家になる決心をする転機となったエピソードです。何気なく受けた作文の模擬試験で「わたしの好きな言葉」という課題に取り組みました。その試験の結果は思いがけない高得点で、さらに採点者からは「高校生が書いたとは思えない、エッセイ調の文体がすばらしい。まるで清少納言が現代にきて書いたのかと思うような作文でした」という一言がありました。ももこはとても喜び、自分が「エッセイ」を書くことが得意なのではないかと気付きました。そしてエッセイをマンガで描いてみるのはどうだろうとひらめいたのです。そこから寝る間も惜しんでマンガを描き、マンガ雑誌に投稿を繰り返し、ついに卒業を目前にした冬、デビューが決まったのでした。 

 小学校で「だっこの宿題」というものがあります。「家族みんなにだっこしてもらうこと」が宿題だということです。ある小学校1年生の男の子が、家族みんなにだっこしてもらえて、うれしくて「また、だっこの宿題がでないかな」と作文にかいたそうです。その話を聞いた近藤さんという80代半ばのおじいさんが、「だっこ」について忘れられない思い出があると語りました。近藤さんが鹿児島県男子師範附属小学校3年生の時でした。この小学校は入学試験があり、合格した生徒全員勉強ができる子でした。しかし、クラスにどういうわけか一人だけ、みんなについていけない子がいました。その子はA君といい、お父さんは市内の小学校の校長先生で、性格はとても純粋で優しく好人物でした。でも勉強のほうは、まったくダメだったようです。当時クラスは42人で、一列7人の6列で授業を受けていました。そして毎週書き取りと算数の試験があり、各列7人の合計点が最高だった列の子どもたちには、ご褒美に鉛筆が1本ずつ配られたそうです。80年前ですから鉛筆は貴重です。みんな鉛筆がほしくて頑張りました。ところが、A君のいる列はどんなに自分が頑張って勉強しても、明らかに合計点が低くなり、みんなA君が同じ列になることを嫌ったそうです。担任の先生は有川先生という男の先生でした。みんなが有川先生に「A君を他の列にいれてください」と言って、クラス全体が殺伐としたそうです。有川先生もほとほと困り果て、一番前にいるA君に尋ねたそうです。「A君、どうしてほしいかね」すると、A君は叫んだそうです。「先生、だっこして」。それを聞いた有川先生は「おお、そうか、そうか」と言ってA君を抱きしめて、そして号泣されたそうです。これには、生徒全員が目を丸くして驚き、一瞬教室は凍り付いたそうです。それからは誰もA君を自分の列から外してくださいとは言わなくなったそうです。A君には教室でも、おそらく家庭においても居場所がなかったのでしょう。その小さな生命が限界だったのでしょう。「先生、だっこして」は限界の叫びだったのです。その叫びに気付いた有川先生は、A君があまりに痛々しくて、愛おしくて、堪えられなかったのでしょう。だからこそ抱きしめて号泣されたのです。とても尊い光景だったそうです。福間義朝(浄土真宗本願寺派教専寺住職)

 

自己評価と他者評価、どっちが大事?

 今日は「露天風呂の日」「世界格闘技の日」だそうで、それらについて書くことはできますが、教育的?にまとめるのが難しそうだったので、「評価」について書きます。ちなみに露天風呂の東の横綱は群馬の宝川温泉だそうです。世界格闘技の日は、アントニオ猪木とモハメド=アリの異種格闘技戦からです。

さて、なぜ「評価」について書こうと思ったかというと、最近見た記事に次のようなものがあったからです。

 「お前たちは自己評価が高すぎる」「試合に出られないと、すぐ『なんで俺を使ってくれないんだ』と言うだろう。でも悲しいかな、人生は他人の評価で成り立っている。監督がどうしたら使いたくなるか、チームにどんな選手が求められているか考えろ」野村克也(元プロ野球チーム監督)

 皆さんは、自分の自己評価は高いと思いますか、低いと思いますか。日本人の自己肯定感が低い理由を、自己評価が高いのに、他人からの評価が低いという現実があると、「なぜ他人は自分を認めてくれないんだ」という苦しみが生まれるから、初めから自己肯定感を下げておけば、苦しむ必要がないからと分析していた人がいました。心理学の防衛機制ですかね。 

評価に関する言葉として以下のものを紹介します。他人の評価が気になってしまう人は、読んでみてください。

〇風向きが変わると人の評価が変わるというのが世の常です。ユダヤ人を救った杉原千畝は正しいと思ったことは何があってもやるという強い姿勢を貫きました。 歴史上の人物で評価が変わった人はたくさんいます。

〇第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分が納得した生き方をしたい。イチロー 

〇人の評価はまちまちなのが、当たり前だ。だから、そのことで振り回されて、一喜一憂しない。

〇評価は本来ならば、自分が変わっていくのを自覚できるのが理想。それを助けるために、教師が示唆する。

〇「他のグループからの評価に納得できない」という生徒が現れる。その納得できない気持ちこそが「最高の学び」につながる。

〇自己評価を何度も行い、内省的な力が高まるにつれ、自分を客観視できるようになる。教師の評価と生徒の自己評価をすりあわせることが大切で、差異がある時は、生徒にとっては自分を見つめ直すチャンスに、教師にとっては指導方法や評価手法を振り返るチャンスとなる。イギリスの私立名門校の目標は、生徒の自己評価と教師の評価が卒業までに一致するようになることだそうです。

〇目標で大事なのは、その目標を学習者が理解できること。そして、学習者が自ら評価できること。

社会の中で生きていく以上、全ての人が他者から評価されるのは避けられません。他者の評価も受け入れつつ、自分を客観的に評価できるようになることが、自分らしさを確立し、自己肯定感を高めるために必要なのではないでしょうか。皆さんは、自己評価と他者評価のどちらを重視しますか?それともヒフティヒフティ(50:50)ですか。

ざわわ ざわわ ざわわ・・・

 昨日に引き続き戦争関連の話題になりますが、1945年の今日、太平洋戦争における沖縄戦が終結しました。この日を沖縄県が「慰霊の日」と決めて条例で休日としています。沖縄戦について知る場所としては、糸満市摩文仁の平和祈念公園、沖縄県平和祈念資料館やひめゆり平和祈念資料館、ガマと呼ばれる住民が避難した自然壕などがあり、修学旅行で訪れる生徒が多く、私も数回見学しています。

 1944年3月26日慶良間列島に上陸した米軍は、4月1日に1,500隻近い艦船と延べ約54万人の兵員をもって沖縄本島に上陸を開始しました。ここから一般住民を巻き込み、ひめゆり部隊や集団自決などの悲劇を生んだ沖縄戦が始まったのです。そして最後は第32軍の司令官・牛島満大将が自決したことにより、組織的戦闘は終結しました。しかし、その後もすぐに戦闘が終わったわけではなく、死ななくてもよかった人が多くいたのです。米軍が投降を呼びかけても、捕まればひどい目にあわされると信じていた島民は、手榴弾で集団自決したり崖から飛び降りたりするなどしました。沖縄戦では、住民を中心におよそ20万人もの犠牲者が出ました。

 私が日本史の授業で、この日付は覚えてほしいと生徒にずっと言い続けてきたのが、「12月8日」「3月10日」「6月23日」「8月6日」「8月9日」「8月15日」です。何の日かわからない人は、すぐ調べてみてください。

 今日は生徒会役員選挙の立会演説会と投票がありました。選挙管理委員の皆さん、立候補者・推薦者の皆さん、御指導いただいた先生方、ありがとうございました。

演説を聞いていた生徒の皆さんの聞く態度もとても素晴らしいものでした。26日に新しい本部役員が発表されますが、今後の太東を主体性をもってリードしていくことになる皆さんに期待したいと思います。

蛍の光と領土問題

 今朝のニュースで、ロシア議会下院が、9月3日を「軍国主義日本に対する勝利の日と第2次大戦終結の日」とする法案を可決したというのを見ました。ロシアは、旧ソ連時代の「対日戦勝記念日」にあたる9月3日を、2020年に「第2次大戦終結の日」としていましたが、わざわざ、今度は「軍国主義日本に対する勝利の日」という語句を加えて名称変更するみたいです。今後、上院での審議を経て、プーチン大統領の署名で成立する見通しですが、報道のとおり、今回の名称変更がウクライナ侵攻に対して対ロ制裁を科す日本への対抗措置ならば「ウクライナを侵略しているロシア」に「軍国主義」なんて言われたくないよ、ですね。もっともロシアは侵略しているなんて思っていないんでしょうけど。

 また、1965年の今日は「日韓基本条約」などの調印式が行われた日です。この条約をもとに日韓の国交が回復し、戦前の両国関係の清算や戦後賠償などの取り決めが行われましたが、現在は「竹島領土問題」「元徴用工問題」「慰安婦問題」「レーダー照射問題」「輸出管理優遇措置撤廃問題」「旭日旗問題」などを抱え、大統領が替わっても日韓関係は戦後最悪の状態を抜け出せていません。なぜ、このような状況になったのかを、よく理解するためには近現代の日本史を勉強してください。

 現在、日本は中国・韓国・ロシアと領土問題を抱えていますが、これらと絡めて皆さんがよく知っている「蛍の光」について書きたいと思います。昔の卒業式で歌う歌の定番といえば、「仰げば尊し」と「蛍の光」でした。コロナ禍の中で、歌われることがかなり少なくなりました。「蛍の光」には「蛍雪の功」の故事が入っており、共に努力した友との別れを歌っていると思われています。しかし、もともと蛍の光は、学生同士の別れの歌などではなく、国防のために任地へ赴く兄弟(あるいは夫や親戚)との別れに際して彼らを鼓舞する形をとった「日本の領土」を歌ったものなのです。下に歌詞を載せましたが、この歌詞が作られたのが1885年で日清戦争や日露戦争の前です。明治政府が領土も含めて近代日本の確立を図ろうとしていた時期に、大いなる危機感を抱いて国民に国を守る意識をもってもらいたいと考えて作ったのでしょう。

 戦後、アメリカの占領下で日本政府がGHQに忖度したのか、はたまたGHQから直接削除の指示があったのかは不明ですが、3番と4番の歌詞は国家主義的(軍国主義、滅私奉公)だとされました。また、日本固有の領土である沖縄がアメリカに占領され、千島がソ連に占領されていたという事情もあって、教育現場への指導で、3番と4番の歌詞は歌われなくなったのだそうです。

3番4番をわかりやすい言葉になおしたものが、下記のものです。まあ、戦中の軍歌に近いものがありますね。

九州の果てでも 東北でも 海や山で遠く隔てられても 真心は隔てられることなく ひたすらに力を尽くせ 国のために

千島列島の奥も 沖縄も 日本国の護りの要 統治の及ばぬ異国には勇敢に尽力せよ 我が兄弟 無事であれ 

 国家という大きな枠組みがあり、世界から国境が消えない限り、領土問題は存在し、資源・エネルギー・食糧・防衛問題がそこに横たわっています。決して他人事ではありません。今後の世界の枠組みがどうなっていくのか、日本はどういう立場をとっていくのか。それらについて考え、国の行方を決定する政治家を選ぶ(それともなる?)のは皆さんです。すぐに選挙権をもつ日がやってきます。地歴公民科目を勉強して、よく考えてくださいね。

明るいうちに何をする?

 今日は「夏至」ですね。今年は、6月21日ですが、近年では6月21日または6月22日であり、年によって異なります。北半球では一年のうちで昼(日の出から日没まで)が最も長く、夜が最も短くなる日ですね。日の出の時刻は4時30分頃、日没は19時頃で、昼の時間は約14時間30分、夜の時間は約9時間30分となります。ただ、この時期は「梅雨」の期間ですので、日照時間は冬よりも短くなることも多いようです。最近、水が入れられている田をよく見るようになりましたが、夏至から10日程度までを目途に水を入れるそうです。農家は田植えなどで忙しくなる時期ですね。冬至には「かぼちゃを食べる」「ゆず湯に入る」などの風習が全国的にありますが、夏至には全国的なものはなく、食べるものは地域によって異なるようです。関西では夏至にタコを食べる風習があり、「タコの8本の足のように、稲が根を張りますように」という願いが込められているそうです。大体この時期の「夏至には〇〇を食べるとよい」という風習には、「暑い夏に備えて体力をつけよう」という意味があります。

ところで、生徒の皆さんは、地理や地学で勉強しているはずなので、昼間の長さがなぜ変わるのか説明できますよね。なぜ、極地では白夜や極夜があるのかも。

小学生に説明するとしたら、どう説明するか下の図を利用して考えてみてください。

リカちゃん人形の行き着く先は?

 父の日に映画ミーガン(M3GAN…Model 3 Generative ANdroidの略称)を観てきました。「リング」や「呪怨」といった怖さとは違う怖さがある映画でした。妻と娘は恐いものが苦手なので付き合ってはもらえず一人で観てきましたが、劇場内はいっぱいで前から2列目で観る羽目になりました。子どものおもちゃは年々ハイテク化が進み、「たまごっち」とかが懐かしく感じられる昨今ですが、ミーガンは近未来としては凄すぎるおもちゃ?です。一言で言えばターミネーターの子ども版です。しゃべるおもちゃは今では珍しくもありませんが、ミーガンは第三世代のアンドロイドということで、学習機能があり、自らの意思をもつようになります。

 この映画のあらすじは、次のとおりです。おもちゃ会社の優れた研究者であるジェマという女性が、まるで人間のようなAI人形を開発しました。それは子供にとって最高の友達であり、親にとって最大の協力者となるようにプログラムされていました。会社でのプレゼンが成功し、発売へゴーサインが出ます。たしか100万円以上で販売される予定でした。それより以前に、交通事故で両親を亡くし孤児となった姪のケイディを引き取ることになったジェマは、販売前の実験段階のミーガンに対し「あらゆる出来事からケイディを守るように」と指示し、力を借りる事にしましたが、ミーガンが徐々に言うことを聞かなくなり暴走し始めます。結末は、とりあえずハッピーエンドなのかもしれませんが、ターミネーター2の結末のように切ない気持ちになりました。この映画は、近未来のAIが発達した世界に潜む危険性を描いてはいますが、同時に親と子、友達同士といった人間同士のコミュニケーションの大切さを描き、子どもが小さい時からスマホやタブレットを与え、親子の直接的コミュニケーションが不足する現在および未来への警鐘を鳴らしているようにも思えます。

 子育てには五つの態度が欠かせないと言われます。一つは常に子供に「寄り添う」こと、二つ目は「見守る」こと、三つ目は子どもをあるがまま「受け入れる」こと、四つ目は「待つ」こと、そして最後の五つ目は、子どもの声に「耳を傾ける」こと、です。映画の中でミーガンは、まさにこれらを実行していました。ミーガンが子どもにとって愛情の麻薬みたいなものになってしまう危険性を映画で感じられました。

 また、児童心理学者ベティー・ハートとトッド・リズリーの研究によれば、0歳から3歳の終わりまでの3年間で親が子どもにかけた言葉の数には、一番多い人と少ない人では平均で3000万語の差があるということです。驚きですね。発達の初期に子どもにかける言葉の数がその後の子どもの能力に比例するという結果でした。また、言葉の数だけでなく、どんな言葉がどのように発せられたかという言葉の質にも影響を受けることがわかりました。果たして、アンドロイドが親や友達の代わりになる日が来るのでしょうか。すると完璧な子育てができ、完璧な友達によっていじめはなくなるのでしょうか。人間とアンドロイドが共存する社会を描いたSFがありましたが、人間そっくりになって見分けがつかなくなったアンドロイドとの間にどんな問題が発生するのでしょうか。生徒の皆さんが子育てをする頃は、どんな世界になっているのでしょう。対応できるように汎用的能力、非認知能力を磨いていきましょう。

感情を込めて読んで、歌って?

 今日は、「朗読の日」だそうで、2001年に制定された、まだ新しい記念日です。「ろう(6)ど(10)く(9)」(朗読)と読む語呂合わせから日本朗読文化協会が定めたそうです。

 「朗読」と「音読」の違いはと言うと、「音読」には正確性が求められるのに対して、「朗読」は文章や詩歌の内容をくみ取り、感情を込めて読み上げるという表現力が求められる、というように目的が違うようです。朗読を芸術や学問、教育としてとらえる考え方もあり、「朗読」は「音読」の「芸術的形態」であると昔の学習指導要領書には書いてありました。中学校では、小学校での「音読=朗読」の基礎の上に(音読の芸術的形態として)「朗読」まで指導する、ということだったようです。

 平成29年度小学校学習指導要領国語科編の「解説書・文部科学省発行」には下記のように書いてあります。
 音読では、これまでに身に付けてきた、声の大きさや抑揚、速さや間の取り方といった音読の技能を生かすことが重要である。
 朗読は、読者として自分が思ったことや考えたことを踏まえ、聞き手に伝えようと表現性を高めて、文章を声に出して読むことである。音読が、文章の内容や表現をよく理解し伝えることに重点があるのに対して、朗読は、児童一人一人が思ったり考えたりしたことを、表現性を高めて伝えることに重点がある。 

 覚えたいことがあれば、黙読ではなく音読したほうがよいと言われます。小学校の時は、音読をよくしていたと思います。英語は、音読は必須ですね。古文漢文も音読が有効です。うまく音読できないところがあれば、そこは理解が不十分なところです。朗読は、親が子どもを寝かしつけるのに枕元で本を読んでいるイメージです。あとは、紙芝居ですね。私も子どもが寝る時に読み聞かせをしましたが、感情を込めて大げさに読んでいました。日本昔話のナレーションみたいな感じですね。

 感情を込めて読む訓練は、コミュニケーション力を高めるのにも役立つと思います。高校ではなかなか授業や学校行事で朗読する機会がないのが現状ですが、一日一回、意識的に朗読する時間をとってみてはいかかでしょう。住所や電話番号などを感情を込めて読む練習もあるということを聞いたことがあります。国語や英語以外の教科書を朗読するとどうなるのでしょうね。自分の好きな小説やマンガなら抵抗なくできるのではないでしょうか。楽しく表現力を高められるかもしれませんよ。眠気覚ましにもいいかも。ばかばかしいと思わず、ぜひ勉強の合間にやってみてください。

※今日は、元号の日でもあるそうですが、645年の事件をきっかけに、日本初の元号が制定されたことに由来しています。その時の元号は何でしたっけ?日本史で勉強したばかりですよね。現在の「令和」までいくつの元号が定められているでしょう?元号をなくして西暦だけにしろという意見も昔ありましたが、日本人は元号で時代を意識してきましたので、なかなか難しいですね。天皇制とも絡んできますし。

交通安全を自分事に

 今日は、6限のLHRの時間に交通安全教室を実施しました。普通、交通安全教室というと、警察から交通安全担当部署の方がいらしてビデオを見ながら、交通安全講話をしたり、校庭で安全運転講習をするとともに、スタントマンの方に自動車と自転車の事故を再現してもらったりというのが定番でした。普遍的な交通安全について学習することも、もちろん大事ですが、その学校の生徒が実際に通学する経路での危険個所について知り、どのように行動することが自分の身の安全を守るのかについて考えてもらうことも大切です。

 具体的な実施内容は、①交通委員2名がHR教室でクロームブックとプロジェクタを用いてクラスの生徒に自転車の安全運転とマナーの向上を呼び掛け、②学校近くの信号を左折する際の自転車走行についての動画や学校南側の道路での斜め横断の動画を視聴し、自動車のドライバー目線も見てもらい、正しい走行方法についての学習。③グーグルマップを用いて太田市中高生交通ハザードマップにアクセスし、自分の通学路上の危険個所を知り、クラスで共有する活動です。交通係の先生方が動画を撮影してくれて、自分事となる交通安全教室が実施できました。

 先日、第一回マナーアップ運動が行われましたが、ヘルメットの着用をしていない人、イヤホンをつけて運転している人、2列以上並列して運転している人、後方確認をしない人、そんな人は、ほとんど見られなかったようでよかったですが、地域の人から注意されることもあるのが事実ですので、太東生として看板を背負っているという意識をもって交通ルールとマナーを守って通学してくださいね。交通ルールを破らないための第一歩は、遅刻寸前に登校しないことです。生徒の皆さん、余裕をもって家を出てください。

「自分探し」より「自分作り」

 今日は、「〇〇らしさ」について思いつくまま書いてみます。世の中には「男らしさ」「高校生らしさ」「子どもらしさ」「先生らしさ」など、たくさんの「らしさ」があふれています。「らしさ」とは「思い込みと偏見」の押し付けだと思いますが、果たして100%間違っているかというと、そうとも思えません。多様性を認めれば、「らしさ」は消えるのでしょうか。

 「自分らしさ」とは何か、悩んだことがある人も少なくないと思います。自分は平凡だと思えば、なおさらでしょう。「自分らしさ」を探そうとすると、絶対的基準ではなく、どうしても他人と比較する相対評価が顔を出します。私という存在の実感は、誰かとの違いを明確にすることで確かめられるのでしょうか。だから、「自分らしさ」を見つけようとすれば、必然的に自分と他人を注意深く比較し、頭一つ抜けた自分の特徴を探し出すことが必要なのでしょうか。現在では、それを多くの他人の手に委ねて「自分らしさ」を認めてもらうために、SNSでフォロワーやいいね!をどうやって増やすかといった、数による承認欲求の充足という泥沼にはまってしまっています。「自分らしさ」は、自分以外の誰かとの比較競争に身を投じて勝利するしか、見つけられないのでしょうか。「自分らしさ」の3つのポイントとして①価値観を大切にして自然体でいる状態 ②他の人にはない自分の特性 ③自分自身で認める個性 を挙げているブログがありました。周りを気にして自然体でいられない人も多いのではないでしょうか。また、自己肯定感が低い日本人にとって「自分自身で認める個性」も見つからない人が少なくないのではないでしょうか。

 「自分の本当の適性というものは、やってみなければわからないという側面がある。何もしないのが一番いけない。まず第一歩を踏み出すこと。踏み出すという実践の中から視野は広がる。あまり狭く考えないほうがよい」と益川敏英(ノーベル物理学賞受賞)さんは、おっしゃっていますが、言い換えれば「自分らしさ」を見つけるためには、いろいろなことにチャレンジしたほうがよいということですね。先日、皆さんにとったアンケートの「身に付けたい力」の2位が「行動力」でしたから、ぜひ行動力を身に付けて、高校時代にいろいろなことにチャレンジし、「自分らしさ」を見つける、というより「自分らしさ」を育ててください。

虫どうですか?

 最近、ヤスデの大量発生に悩まされています。ヤスデって何?という人のために写真を載せたいところですが、気持ちのいいものではないのでやめておきます。隣の畑から発生しているらしいので、塀際と家の周りに忌避剤をまいていますが、完全に防ぐことはできません。家の中にも出没し、妻と娘が毎日叫んでいます。
 女性で虫が好きという人は、あまり見ませんが、私は小さい頃から百科事典の虫や動物の巻をページが手垢で汚れるほど読んでいましたので、あまり苦手意識はありません。さすがに毛虫とゴキブリは素手で触れませんが、母親の実家で蚕を飼っていて、手伝ったりしていたので、芋虫は大丈夫です。先日、庭と玄関先の鉢植えに2センチほどのかまきりの赤ちゃんを見つけ、可愛いと思いました。昔、ぐんま昆虫の森で、私の手のひらより大きいかまきりを見ましたが、素手で捕まえるのはあきらめました。虫を近くで観察するのは、おもしろいですよ。
 日本では、虫に親しむ文化がありますが、外国ではあまりないようです。例えば、鈴虫などの秋の虫の音は日本人は風流に感じますが、外国人には雑音でしかないようです。セミやカブト虫、くわがた、蝶などを捕りに行って標本にする昆虫採集や、幼虫から育てるなどの文化は、外国にはないようで、家の中で昆虫を育てたり飼ったりすることには驚かれるようです。ということは、ぐんま昆虫の森みたいな施設は外国にはないのでしょうね。もちろん、藪塚の蛇センターみたいな施設もないのでしょうね。キリスト教では、蛇はアダムとイブをそそのかして神の怒りにふれ、地上で地べたをはうことになってしまった動物ですから。
 虫を題材にしたことわざはたくさんありますが、「一寸の虫にも五分の魂」はよく知られていると思います。どんなに小さな虫にも魂があり、命の尊さを表していますが、転じて、小さくて弱い者でも、それ相応の意地や根性があるため、どんな相手でも侮ってはならないという意味があります。昔、読んだ楳図かずおのマンガに昆虫採集をして手当たり次第に虫を標本にしている少年が虫の姿にされてしまい、一本足の巨大な妖怪少女が釘となって巨木に標本のように少年を打ち付けるというものがありましたが、虫をテーマにしたマンガには恐いものが多かったです。「ある朝、 グレゴール・ザムザが目をさますと、 自分が一匹の巨大な毒虫に変わっているのを 発見した。」で始まるカフカの「変身」は有名ですが、もし自分がそうなったらと思うと身の毛がよだちます。ゴキブリは殺して、蝶は助けるというのは、人間のエゴですよね。私は、家の中に出る虫でも、蜘蛛はなるべく捕まえて庭に逃がすようにしています。害虫と益虫の区別は人間の御都合ですが、これもエゴでしょうか。皆さんはどう思いますか。生理的な嫌悪感はどうにもならないものですし、理性的に対応しようと思っても厳しいものがありますよね。
 虫の能力は、実はすごいというのが「仮面ライダー」で表現されていますが、「アラクニド」や「キャタピラー」というマンガにも、虫のすごさが描かれていて詳しい説明もあり、勉強になります。地球上に存在する種は総数180万と言われていて、そのうち100万種以上が昆虫であり、昆虫は地球上の王者です。人類が滅亡しても生き延びるでしょう。人類は、科学の力で昆虫のすごいところを取り入れて、生き延びることができるでしょうか。

※問題 文中の4コマ漫画は、カフカの「変身」のパロディですが、『サラリーマン』という語句を用いて、どこが面白いのかを100字程度で説明しなさい。(出典 《サラリーマン講座》情呆辞典 山科けいすけ著)

解答例 甲虫に変身して慌てている理由がネクタイが締められないというオチと、遅刻しそうだと飛んで出勤するオチで、甲虫になってしまった重大さよりも会社を優先してしまう悲しいサラリーマンの習性を描いているところ。(99字)

小さな親切してますか?

 1963年(昭和38年)の6月13日、「小さな親切」運動本部が発足しました。この年の東京大学の卒業式の告辞で、茅誠司総長が「小さな親切を勇気をもってやってほしい」と言ったことがきっかけとなりました。その後、実践例が新聞などで報じられ、社会から幅広い共感が寄せられ、6月13日のこの日に茅さんを始めとする学者・ジャーナリストなど8名の提唱者が運動を発足させたそうです。「できる親切はみんなでしよう 。それが社会の習慣となるように」、「人を信じ、人を愛し、人に尽くす」をスローガンに運動が進められています。

 私が生まれた年に「小さな親切運動」が始まったのは興味深く、小中学校で覚えがあります。「大きな親切」は無理でも「小さな親切」はできるから、それを積み重ねていけば、よい社会になるはずという考え方は、至極真っ当で、文句のつけようがありません。一方で、「小さな親切大きなお世話」という言葉があることは、皆さんご存じでしょうか。「有難迷惑」という言葉もあります。自分では親切だと思ってやっていたことが、実は相手にとっては却って余計で迷惑以外の何物でもなかったという状況を表す言葉です。こんなことを言うのは教育的ではないかもしれませんが、みんながもっともだと思うことには落とし穴がありますので、さらによい意見が生成されると考え、大目に見てください。

 「地獄への道は善意で舗装されている」「地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている」という格言がヨーロッパにはあります。「人の善意は悪意より恐ろしい」という言葉が日本にもあります。この解説として、「善意は基本的に気まぐれであり、継続性に難があるため、それを前提とした付き合いは、むしろ危険である。また、善意はそれだけで善いとされるため、生産性が問われることも少ない。故に、しばしば善意は悪意よりもたちが悪い。悪意を排除するのは大義名分もあり、容易いが、善意は排除しにくいからだ。」とあります。この「善意は排除しにくい」というのが曲者です。「善意でやってくれているのだから・・・」と拒否したいけどできなかったという経験はありませんか。

 私は、被災地の支援に必要なものを送るという行為をニュースで見て、「小さな親切大きなお世話」を感じました。とても被災地で役に立たないものや、古着などゴミに近いものを送られても、それを整理しなければならない人にとっては「有難迷惑」のなにものでもないでしょう。実際、現場で被災した人たちが必要としているのは「善意」ではなく、必要なのは成果であり、生産性の高い活動であり、効率的な支援でしょう。自分の思い込みだけで気配りや心遣いが無いような親切心では、一方的に自身の行為を相手に押しつけるような形になってしまい、かえって相手に迷惑をかけ、最悪人間関係が壊れてしまうことにもなりかねません。

 「自分がされたら嫌なことは他人にしてはいけない」と論語にあります。もっともらしいですが、自分と他者の感覚が同じであるという隠れた前提があります。では、自分が嫌じゃなければ問題ないのでしょうか。自分がされて嫌じゃなくても、相手が嫌がったらだめなんです。逆に「小さな親切」の場合、「自分がされてうれしいことは、他人もうれしい」という前提があって成り立ちます。何をするにしても、よくよく相手のことを考えてする必要があるってことですね。考えすぎると何もできなくなってしまいそうですが、お互い様ですから、多少は我慢しましょう。私は中学校の校外学習の帰りに電車の中でおじいさんに席を譲ろうとして「よろしければ、かけてください」と言ったら「私は、そんな年ではない」と断られてしまいました。白髪の十分なおじいさんだったんですけどね。それ以来、席を譲ろうと思っても、声掛けせずに席を立って移動することにしました。「小さな親切」が「大きなお世話」になってしまった思い出です。

「大丈夫!」

 今日は、「ダウン症の書家」として知られる金澤翔子さんの誕生日です。私が彼女を知ったのは、PHPという雑誌の中の連載ですが、校長室の机の前には校歌とともに日めくりカレンダーが二つ掲示してあり、席の後ろの黒板には、書のコピーが9枚貼ってあります。彼女は、5歳から母の師事で書を始め、20歳で銀座書廊で個展を開催したのち、伊勢神宮や東大寺をはじめ、延暦寺、中尊寺、建仁寺、熊野大社、厳島神社、大宰府天満宮など名だたる神社仏閣の総本山にて奉納揮毫や個展を開催してきました。ニューヨーク、チェコ、シンガポール、ロシア、台湾など海外でも個展を多く開き、成功しています。また、バチカンに大作「祈」を寄贈しローマ教皇庁より金メダルが授与されています。 そのほか、国連本部でのスピーチや国体開会式での巨大文字揮毫、NHK大河ドラマ「平清盛」揮毫、天皇御製謹書など活動の幅は多岐にわたり、紺綬褒章を受章しています。

 絵でも書でも、「ただうまい」ものと「人に感動を与える」ものは、天と地の差があると思います。人の感性に訴える作品は、うまく言語化して説明できない場合もあります。表現できる言葉が見つからないのは,恋や愛の歌にもありますね。感動したり感激したりしたことを、言葉で伝えて共有するためには、やはり語彙力が必要になってきます。先日、グーグルフォームで生徒の皆さんに「高校で身に付けたい力を3つ選んでください」というアンケートをしましたが、1位は2位の「行動力」(33.2%)を大きく引き離して、48.2%と断トツでコミュニケーション力でした。コミュニケーション力も非認知能力として非常に大切ですが、その手段として大切なのが語彙力ですので、こちらも高める努力も怠らないようにしてください。

「くう ねる あそぶ」の意味

 皆さんは、「遊ぶ」ことに対して、どんなイメージを持っていますか。「遊ぶ」の対義語は何だと思いますか。諸説ありますが、正解は何でもよくて、自分がどう考えるかだなと思います。解答例には、「働く」「休む」「学ぶ」などがあります。

 「遊び」というと思い出されるのが、後白河法皇が編纂した今様集『梁塵秘抄』の中にある「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ」です。日本史を選択している皆さんは、授業で学びましたか?このうたを解釈すると「子どもたちは遊びたくて生まれてきたのだろうか。ふざけたりイタズラするのが楽しくて生まれてきたのだろうか。子どもたちの楽しそうな笑い声を聞くと、私も遊びたくなって体がムズムズしてしまうよ。」とでもなるのでしょうか。このうたは、立場から二つの解釈があるようですが、興味をもった人は調べてみてください。

 さて、「遊ぶ」ことについて、次のような文章を見つけたとき、私は「遊ぶ」の対義語は「休む」かなと思いました。「働く」ことにも「学ぶ」ことにも「遊び」の要素を取り入れてこそ、楽しくできるのではないかと考えます。

 「遊ぶこと」は、「決して楽なことでも、息抜きでも、気晴らしでもない」「自分自身のすべてをかけた緊張感や張りのあるスリリングでリスキーな行為であり、何かを学ぶための手段や方法におさまるようなものではない」「子どもにとっては、いつでも最も集中しているのは遊んでいるときであり、遊んでいる時以上に真剣な時はない」「子どもたちは、遊びの中で最高に洗練された人間らしい重要な能力を発揮しているのだ」 

 「遊び」の中で、学び、働き、能力を発揮する。なんてすばらしい。先日の体育祭も、遊びの中に学びがあったのか、学びながら遊んでいたのか、どちらでもいいですよね。準備の段階から実施まで、色々なことが楽しみながら学べたのなら。学校の教育活動が、すべて遊びの視点から捉えなおせたら、面白くなりますね。

※ちなみに「くう ねる あそぶ」は、1988年の車のCMのキャッチコピーです。ミュージシャンの井上陽水が、車の助手席から「皆さん、お元気ですか~」と言うのが話題になりましたが、ある事情で音声が消えました。気になった人は、調べてみてください。日本の社会について考えることができます。

体育祭を終えて、次なる団体戦へ!

 今日は、体育祭を実施しました。先日ほど暑くならず午後からは曇って気温も下がり、よいコンディションでできました。午前中は日が差して少し暑かったので、体調不良者が数名でましたが、足のケガ等、全体的に昨年よりも少なかったので、ほっとしています。午前中は、みごとな日がさと飛行機雲が空にあり、天気予報通り明日の雨を予想できました。今年も生徒会と有志の実行委員の皆さんが頑張って、生徒が主体性をもって体育祭を作れたことをうれしく、誇らしく思います。それを支援していただいた先生方、ありがとうございました。

 昨年の体育祭では、まだコロナ感染に留意して、競技種目を変更したり、応援もスティックバルーンを使って声を出さないようにしたりして、感染防止の工夫をしていました。今年もまだコロナが消滅したわけではないので、注意を促していました。ただ、コロナが5類に引き下げられたので、昨年よりマスクを外せるようになり、声も出せるようになり、円陣を組んでの声出しも見られ、活気ある体育祭ができました。

 私が年をとったからか、生徒の若いエネルギーに圧倒されるとともに、元気ももらっています。応援合戦は、よく短期間でこれだけのパフォーマンスができるように練習したなと相変わらず感心し、皆さん楽しそうにダンスしているので、一緒に踊りたくなりました。丸太取り合戦では、男女とも勝利への闘争心にあふれていて、つい見ていて力が入ってしまいました。

 得点集計までの時間に、チアリーディング部が1年次生のお披露目も兼ねて、パフォーマンスを披露してくれました。チアリーディング部の皆さんも疲れているのに大丈夫かなという心配をよそに、土の校庭の上で見事な演技をし、全校生徒をわかせ、盛り上げてくれました。ありがとうございました。

 来年は、さらに工夫して、(もっと)2盛り上がる体育祭にしてください。それと、昨年の体育祭の日のブログに「学校行事での感動が大きいほど、受験への切り替えもうまくいく」と書きましたが、3年次生の皆さん!今度は全員での団体戦になります。頑張ってください。

「真善美」と「誠明健」

 自分が何者なのかを考える一つの指針に「真善美」があるといいます。〈真〉は、自分は何を信じるのか、〈善〉は、何がよいことだと思うのか、〈美〉は、何を美しいと感じるのか、ということです。あなたの「真善美」は何ですか。『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は、フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵画の作品名です。彼は、故郷のフランスよりも素朴で単純な生活を求めて、1891年にタヒチ島に渡り、そこでこの絵画を描き上げました。素朴で根源的な疑問ですが、考えることがばかばかしいと思うか、それとも答えは出ないけれどもとことん考えてみようと思うか。皆さんは、どちらですか。「美しさ」と言えば、ブルーハーツの『リンダリンダ』を思い出します。その冒頭の歌詞は「ドブネズミみたいに 美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから」でした。考えれば考えるほど、絶対的な「真実」や「善」や「美」などないと思い至ります。人それぞれみんな答えが違うので、自分がどんな人間なのかを知る根拠になります。尾崎豊は『15の夜』で「自分の存在が何なのかさえわからず震えている15の夜」と歌いましたが、誰にもわからないことだと思います。一生懸命生きたら、死ぬ間際にわかることかもしれません。自分が何者かを考える材料に「誠明健」はどうでしょう。一般に定義されている意味ではなく、自分はどう解釈するのか。生徒の皆さんなら、「誠明健はそれぞれどんな意味なのか、自分なりに説明してください」と言われたら、どんな説明をしますか。

楽器、弾けますか?

 今日は「楽器の日」だそうで、一般社団法人・全国楽器協会(全楽協)が楽器を演奏する楽しさを知り、始めるきっかけの日としてもらうことを目的として1970年(昭和45年)に制定しました。一方で「恐怖の日」でもあるみたいで、キリスト教の聖典『新約聖書』の中で、世界の終末を描いた『ヨハネの黙示録』の13章16~18節に「獣の数字」として「666」という数字が登場します。キリスト教の影響下にある文化では、悪魔サタンや悪魔主義的なもの、反キリストにつながる数字とされ、「悪魔の数字」「不吉な数字」とされています。私が中学生の時に見た「オーメン」という映画は、頭に666のアザをもつ悪魔の子の物語でした。今日は、「恐怖」の話題は避けて、「楽器の日」にちなみ明るい話題にしたいと思います。

 「楽器の日」が6月6日なのは、昔から「習い事・芸事は6歳の6月6日から始めると上達する」という言い伝えがあるからだそうです。また、数を指で折って数えると6の数字の時に小指が立つ形になり、「子が立つ」ともいわれ、縁起の良さもその由来とされています。昔は、栄養事情が悪く6歳までで死んでしまう子どもが多かったため、7歳未満の子どもは「神様」であり、神聖なものとして取り扱うべきだという「7つ前は神のうち」という言葉がありました。戦後、栄養事情がよくなり子どもが死ななくなり、生活に余裕が出て来ると、ピアノやヴァイオリンなどを習う子も出てきました。昭和45年というと私は小学2年生でしたが、ピアノ・ヴァイオリン・トランペットを習っている友達がいて、お金持ちだなと思っていました。

 私は音楽の成績がほぼ「3」で「4」をとったのは2回くらしか記憶にありません。そんなわけで楽譜は読めませんでしたが、高校1年生の時に独学でアコースティックギターを練習して、タブ譜があれば弾けるようにはなりました。自分が好きな曲が弾けるようになったときは、うれしかったですね。弦を押さえる指先はかなり固くなりました。先日、軽音楽部について書きました。一人でメロディー楽器を弾くのもいいですが、リードギター・リズムギター・ベース・ドラム・キーボードなどが協力して一つの音楽を作り上げる喜びは、また別物だと思います。オーケストラが美しいシンフォニーを奏でるためには、異なる楽器が数多く存在し、それぞれが他の楽器の演奏にじっくり耳を傾けながら、自分の持ち味を最大限に発揮して演奏をします。演奏者相互の信頼と敬意、協調する気持ちが存在して初めて美しいシンフォニーが可能になります。社会や組織はオーケストラに例えられます。自分とは異なる個性をもった人々が協働しながら、自分の持ち味を最大限に発揮して貢献することで、より多くの人を幸せにできると信じて、最善を尽くすことで社会が発展していきます。皆さんも、自分の個性・長所を伸ばして、様々な人と協働できるようになってください。

※昨年の6月13日のブログに「音楽」が「音学」でない理由について書きましたが、音楽の「音」は歌声、「楽」は楽器の発する音を意味します。文学の学は学問の意味であり、音楽の「楽」は「かなでる」意味です。ですから、楽器は「音を奏でる器」という意味になります。

授業参観日記スタート!

 6月に入ってから、先生方の授業を参観させてもらっています。本校のウェブページのトップに校長挨拶・ブログ通信というボタンがありますが、その右に「授業参観日記」というボタンを作ってもらいました。これから夏季休業に入るまでにすべての先生方の授業を見て、先生方がどのような授業をしてくれているかを綴ってウェブにアップしていきます。先生方がよい授業をしていても、外部はもとより、なかなか校内の先生方にも知ってもらう機会が少ないので、情報交換と広報を兼ねて、発信することにしました。今年の授業研究のテーマは「対話的学習活動」と「ICTの活用」です。これからの社会で生きていく上で、どのような力を身に付ける必要があるか、その力を身に付けてもらうためにどのような授業をしたらよいのか、日々悩んでいるところです。「不易流行」という言葉のとおり、教育の本質は変わらないとしても、時代が変われば、必要に応じて変わるものも出てきます。一人1台端末の活用もそのうちの一つでしょう。高校の教師にとっては専門科目の授業が「命」のはずなので、最も力を注ぐべきものです。しかし、実際には、授業以外にHR経営や校務分掌の業務、部活動指導、その他にも多くの業務があり、授業研究や準備にかけられる時間が十分とれているとは決して言えません。それでも、生徒の皆さんに自分が教える科目を好きになってもらって、できるようになってほしいという願いをもって、先生方は日々の授業の準備を一生懸命にして、教壇に立っています。授業は、先生と生徒が作り上げるライブです。教室はライブ会場です。ぜひ、みんなで盛り上がるように協力してください。

裏切り者の名を受けて~♪

 今日6月2日は、「裏切りの日」だそうです。皆さんが、よく知っているはず?の本能寺の変があった日です(旧暦)。明智光秀が謀反を起こし、織田信長を自害に追い込んだ日です。襲撃を知った信長は近侍の森蘭丸に誰の襲撃かを尋ね、光秀と聴くと「是非もなし」(仕方がない)とつぶやいたそうですが、光秀にそうした行動をとらせた自分にも非があったと思ったからなのでしょうか。戦国武将のリーダーシップや人心掌握術についてビジネス書ではよくテーマになりますが、織田信長のように「相手も自分と同じくらい打たれ強い人間だ」と錯覚していて対処すれば、部下から恨みをかうことになるでしょう。当人は弱肉強食の社会を生き抜いてきただけに、少々の侮辱など気にしない強いメンタルをもっているのでしょうが、部下がすべてそんな人間であるはずはありません。自分と同じようになることを要求するリーダーは、組織は様々なタイプの人間が自分の長所を生かし短所を補い合って協働していくところだということが、わかっていないのでしょう。
 松下幸之助さんは、「豊臣秀吉は、主人である織田信長の長所を見ることに心がけて成功し、明智光秀はその短所が目について失敗した」と言っています。やはり、人の短所よりも長所に目を向けられる人、そして長所を見つけて自然と具体的にほめられる人はすごいと思います。女優のオードリー=ヘプバーンは「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい」という言葉を残していますが、皆さんも他人の美点を探せる人になってください。
 「人を信じて傷つくほうがいい」と海援隊の「贈る言葉」の歌詞にあります。自分が人を裏切るよりも裏切られるほうが、まだましだと思える人は優しく強い人だと思います。人への言動が自分に返ってくる「ブーメランの法則」が真実なら、人を裏切れば裏切られるということになります。仏教で言えば「因果応報」になりますね。自分が行った善いことも悪いことも、巡り巡って自分に返ってくることをみんなが心に刻めば、戦争なんてなくなるはずなのですけどね。
 瀬戸内寂聴さんは「人間の苦しみの中で一番多いのが、これだけしてあげたのに返してくれないというもの」と言っています。「期待を裏切る」という言葉がありますが、これは、自分がしてやったことに対して返してくれるのが当たり前という期待をもっているから、それが叶わないときに裏切られた気持ちになって苦しむことになるということです。「お前には期待していたんだがなぁ。裏切られたよ。」というセリフを聞いたことはありませんか。「期待してくれなんて誰も頼んじゃいないよ。なんだよ、裏切られたって。」と言い返したくなりますね。期待されると、うれしいと感じて頑張れる人もいれば、プレッシャーに感じて気持ちが落ち込む人もいます。吉田兼好は、「他人に必要以上に期待するな。でないと期待はずれで怒ることも増す。」と言っています。期待通りに動いてくれた時にだけ、「ありがたい」と考えるようにすれば、いつまでも良好な関係でいられますよね。
「どうして~してくれないの?」と不満をもつより「~してくれてありがとう」と考えられるようになれば、心のモヤモヤも消えることでしょう。皆さんは、どう考えますか。

※「裏切る」の語源が気になったので、調べてみました。古い日本語では見た目の姿・形を「おもて」(ほそおもてなどは現在でも使われていますよね)、外から見えない内面を「うら」と表現していたそうです。この「うら」は裏とも書きますし、心(←この字を現在でも「うら」と読みます)とも書きますが語源は一緒だそうです。「裏切る」とは心(うら=外から見えない部分)の繋がりを断ち切ることであり、味方に背くことや、約束・期待などに反することを表現することばになったようです。ちなみにうらを心とする語源から派生した言葉としては「うらやむ」(心が病む)などがあります。

「裏切る」の語源は、上記のものがきれいだなと思って載せましたが、味方を後方(裏)から切るという説もあり、真偽は不明です。

生成型AIとどう付き合う?

 4月17日のブログで、チャットGPTについて書いてから1か月以上たちましたが、その後も多くの議論が起こっています。携帯電話やスマホの普及で問題が起こった時も、利用を禁じるより賢く扱う方法を一緒に考えてはどうかという意見がありました。生成型AIについても、同様の意見があります。13歳以上18歳未満のチャットGPT利用には、保護者の許可が必要とされています。ですから、高校生の皆さんは、学校の授業で使う場合には保護者の許可がないとほとんどの人はチャットGPTが使えません。ただし、実際には自宅で使えてしまいます。現在のように一人1台、スマホやパソコンを持っている状況では、便利だと広まってしまったものに規制をかけるのは至難の業です。行政や大学などでも対応が分かれていますが、やはり小・中・高の教育現場では、文章力が低下するという危惧が大きいです。ある教育関連企業が実施した調査によると、小学生のおよそ6割が作文に苦手意識をもっているそうです。公務員向けの文章作成講座の講師は、「作文が苦手」な人の割合は大人も変わらないと言っています。要するに、自分で文章を作成した経験値が学校教育や社会人生活でほとんど増えないのが問題で、チャットGPTに文章力を奪われることを気にする前に、学校教育での文章指導の在り方を見直す必要があるということです。

 現在では、まだAIの答えを信用できないので、批判的に受け止める力と間違いを修正する力が必要とされます。ただ、今後かなり早い段階でAIの答えの精度が劇的にあがることが予想されます。その時、私たちに必要とされる力は何でしょうか。そもそも『何を問い、何を解決したいのか』が明確でなければ、AIに聞くこともできません。新学習指導要領の下で、対話的活動が重視されていますが、対話型AIは、やりとりを重ねて子どもが考えを深めることができる相手になれる可能性があります。

 研究でAIは自然言語処理の過程でハルシネーション(幻覚)を起こす可能性があることがわかっています。ハルシネーションとは、もっともらしいウソ(=事実とは異なる内容や、文脈と無関係な内容)の出力が生成されることです。新井紀子氏(国立情報学研究所社会共有知研究センター長・教授) は「チャットGPTの『答え』が確率と統計に基づくものである限り、正しさについては今後も保証されることはない」「自分がよく知っていることに関する下書きにはチャットGPTは使える。しかし、自分がよく知らないことには使わないほうがいい。高い安全性や信頼性、真実性が必要なことには使ってはいけない。」と警鐘を鳴らしています。

 ダイナマイトは、土木作業に役立つ一方で、兵器に転用されれば人殺しの道具になります。同様にAIも道具です。コンピュータはハード面ソフト面双方で今後も加速度的に発達していくことは間違いないので、うまく付き合っていく方法を前向きに考えていったほうがいいでしょう。皆さんが、進学した時、就職した時、AIによって世の中はどう変わっているでしょうか。そうした変化に対応するためにも、高校時代にできるだけ汎用的能力を磨いてください。

写真の胡蝶蘭は、3月1日の卒業式にいただいたものと、6月1日現在のものです。3か月たつのに、まだこれだけ残っているのはすごいですよね。