日誌

榎本校長のつぶやき

楽器、弾けますか?

 今日は「楽器の日」だそうで、一般社団法人・全国楽器協会(全楽協)が楽器を演奏する楽しさを知り、始めるきっかけの日としてもらうことを目的として1970年(昭和45年)に制定しました。一方で「恐怖の日」でもあるみたいで、キリスト教の聖典『新約聖書』の中で、世界の終末を描いた『ヨハネの黙示録』の13章16~18節に「獣の数字」として「666」という数字が登場します。キリスト教の影響下にある文化では、悪魔サタンや悪魔主義的なもの、反キリストにつながる数字とされ、「悪魔の数字」「不吉な数字」とされています。私が中学生の時に見た「オーメン」という映画は、頭に666のアザをもつ悪魔の子の物語でした。今日は、「恐怖」の話題は避けて、「楽器の日」にちなみ明るい話題にしたいと思います。

 「楽器の日」が6月6日なのは、昔から「習い事・芸事は6歳の6月6日から始めると上達する」という言い伝えがあるからだそうです。また、数を指で折って数えると6の数字の時に小指が立つ形になり、「子が立つ」ともいわれ、縁起の良さもその由来とされています。昔は、栄養事情が悪く6歳までで死んでしまう子どもが多かったため、7歳未満の子どもは「神様」であり、神聖なものとして取り扱うべきだという「7つ前は神のうち」という言葉がありました。戦後、栄養事情がよくなり子どもが死ななくなり、生活に余裕が出て来ると、ピアノやヴァイオリンなどを習う子も出てきました。昭和45年というと私は小学2年生でしたが、ピアノ・ヴァイオリン・トランペットを習っている友達がいて、お金持ちだなと思っていました。

 私は音楽の成績がほぼ「3」で「4」をとったのは2回くらしか記憶にありません。そんなわけで楽譜は読めませんでしたが、高校1年生の時に独学でアコースティックギターを練習して、タブ譜があれば弾けるようにはなりました。自分が好きな曲が弾けるようになったときは、うれしかったですね。弦を押さえる指先はかなり固くなりました。先日、軽音楽部について書きました。一人でメロディー楽器を弾くのもいいですが、リードギター・リズムギター・ベース・ドラム・キーボードなどが協力して一つの音楽を作り上げる喜びは、また別物だと思います。オーケストラが美しいシンフォニーを奏でるためには、異なる楽器が数多く存在し、それぞれが他の楽器の演奏にじっくり耳を傾けながら、自分の持ち味を最大限に発揮して演奏をします。演奏者相互の信頼と敬意、協調する気持ちが存在して初めて美しいシンフォニーが可能になります。社会や組織はオーケストラに例えられます。自分とは異なる個性をもった人々が協働しながら、自分の持ち味を最大限に発揮して貢献することで、より多くの人を幸せにできると信じて、最善を尽くすことで社会が発展していきます。皆さんも、自分の個性・長所を伸ばして、様々な人と協働できるようになってください。

※昨年の6月13日のブログに「音楽」が「音学」でない理由について書きましたが、音楽の「音」は歌声、「楽」は楽器の発する音を意味します。文学の学は学問の意味であり、音楽の「楽」は「かなでる」意味です。ですから、楽器は「音を奏でる器」という意味になります。

授業参観日記スタート!

 6月に入ってから、先生方の授業を参観させてもらっています。本校のウェブページのトップに校長挨拶・ブログ通信というボタンがありますが、その右に「授業参観日記」というボタンを作ってもらいました。これから夏季休業に入るまでにすべての先生方の授業を見て、先生方がどのような授業をしてくれているかを綴ってウェブにアップしていきます。先生方がよい授業をしていても、外部はもとより、なかなか校内の先生方にも知ってもらう機会が少ないので、情報交換と広報を兼ねて、発信することにしました。今年の授業研究のテーマは「対話的学習活動」と「ICTの活用」です。これからの社会で生きていく上で、どのような力を身に付ける必要があるか、その力を身に付けてもらうためにどのような授業をしたらよいのか、日々悩んでいるところです。「不易流行」という言葉のとおり、教育の本質は変わらないとしても、時代が変われば、必要に応じて変わるものも出てきます。一人1台端末の活用もそのうちの一つでしょう。高校の教師にとっては専門科目の授業が「命」のはずなので、最も力を注ぐべきものです。しかし、実際には、授業以外にHR経営や校務分掌の業務、部活動指導、その他にも多くの業務があり、授業研究や準備にかけられる時間が十分とれているとは決して言えません。それでも、生徒の皆さんに自分が教える科目を好きになってもらって、できるようになってほしいという願いをもって、先生方は日々の授業の準備を一生懸命にして、教壇に立っています。授業は、先生と生徒が作り上げるライブです。教室はライブ会場です。ぜひ、みんなで盛り上がるように協力してください。

裏切り者の名を受けて~♪

 今日6月2日は、「裏切りの日」だそうです。皆さんが、よく知っているはず?の本能寺の変があった日です(旧暦)。明智光秀が謀反を起こし、織田信長を自害に追い込んだ日です。襲撃を知った信長は近侍の森蘭丸に誰の襲撃かを尋ね、光秀と聴くと「是非もなし」(仕方がない)とつぶやいたそうですが、光秀にそうした行動をとらせた自分にも非があったと思ったからなのでしょうか。戦国武将のリーダーシップや人心掌握術についてビジネス書ではよくテーマになりますが、織田信長のように「相手も自分と同じくらい打たれ強い人間だ」と錯覚していて対処すれば、部下から恨みをかうことになるでしょう。当人は弱肉強食の社会を生き抜いてきただけに、少々の侮辱など気にしない強いメンタルをもっているのでしょうが、部下がすべてそんな人間であるはずはありません。自分と同じようになることを要求するリーダーは、組織は様々なタイプの人間が自分の長所を生かし短所を補い合って協働していくところだということが、わかっていないのでしょう。
 松下幸之助さんは、「豊臣秀吉は、主人である織田信長の長所を見ることに心がけて成功し、明智光秀はその短所が目について失敗した」と言っています。やはり、人の短所よりも長所に目を向けられる人、そして長所を見つけて自然と具体的にほめられる人はすごいと思います。女優のオードリー=ヘプバーンは「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい」という言葉を残していますが、皆さんも他人の美点を探せる人になってください。
 「人を信じて傷つくほうがいい」と海援隊の「贈る言葉」の歌詞にあります。自分が人を裏切るよりも裏切られるほうが、まだましだと思える人は優しく強い人だと思います。人への言動が自分に返ってくる「ブーメランの法則」が真実なら、人を裏切れば裏切られるということになります。仏教で言えば「因果応報」になりますね。自分が行った善いことも悪いことも、巡り巡って自分に返ってくることをみんなが心に刻めば、戦争なんてなくなるはずなのですけどね。
 瀬戸内寂聴さんは「人間の苦しみの中で一番多いのが、これだけしてあげたのに返してくれないというもの」と言っています。「期待を裏切る」という言葉がありますが、これは、自分がしてやったことに対して返してくれるのが当たり前という期待をもっているから、それが叶わないときに裏切られた気持ちになって苦しむことになるということです。「お前には期待していたんだがなぁ。裏切られたよ。」というセリフを聞いたことはありませんか。「期待してくれなんて誰も頼んじゃいないよ。なんだよ、裏切られたって。」と言い返したくなりますね。期待されると、うれしいと感じて頑張れる人もいれば、プレッシャーに感じて気持ちが落ち込む人もいます。吉田兼好は、「他人に必要以上に期待するな。でないと期待はずれで怒ることも増す。」と言っています。期待通りに動いてくれた時にだけ、「ありがたい」と考えるようにすれば、いつまでも良好な関係でいられますよね。
「どうして~してくれないの?」と不満をもつより「~してくれてありがとう」と考えられるようになれば、心のモヤモヤも消えることでしょう。皆さんは、どう考えますか。

※「裏切る」の語源が気になったので、調べてみました。古い日本語では見た目の姿・形を「おもて」(ほそおもてなどは現在でも使われていますよね)、外から見えない内面を「うら」と表現していたそうです。この「うら」は裏とも書きますし、心(←この字を現在でも「うら」と読みます)とも書きますが語源は一緒だそうです。「裏切る」とは心(うら=外から見えない部分)の繋がりを断ち切ることであり、味方に背くことや、約束・期待などに反することを表現することばになったようです。ちなみにうらを心とする語源から派生した言葉としては「うらやむ」(心が病む)などがあります。

「裏切る」の語源は、上記のものがきれいだなと思って載せましたが、味方を後方(裏)から切るという説もあり、真偽は不明です。

生成型AIとどう付き合う?

 4月17日のブログで、チャットGPTについて書いてから1か月以上たちましたが、その後も多くの議論が起こっています。携帯電話やスマホの普及で問題が起こった時も、利用を禁じるより賢く扱う方法を一緒に考えてはどうかという意見がありました。生成型AIについても、同様の意見があります。13歳以上18歳未満のチャットGPT利用には、保護者の許可が必要とされています。ですから、高校生の皆さんは、学校の授業で使う場合には保護者の許可がないとほとんどの人はチャットGPTが使えません。ただし、実際には自宅で使えてしまいます。現在のように一人1台、スマホやパソコンを持っている状況では、便利だと広まってしまったものに規制をかけるのは至難の業です。行政や大学などでも対応が分かれていますが、やはり小・中・高の教育現場では、文章力が低下するという危惧が大きいです。ある教育関連企業が実施した調査によると、小学生のおよそ6割が作文に苦手意識をもっているそうです。公務員向けの文章作成講座の講師は、「作文が苦手」な人の割合は大人も変わらないと言っています。要するに、自分で文章を作成した経験値が学校教育や社会人生活でほとんど増えないのが問題で、チャットGPTに文章力を奪われることを気にする前に、学校教育での文章指導の在り方を見直す必要があるということです。

 現在では、まだAIの答えを信用できないので、批判的に受け止める力と間違いを修正する力が必要とされます。ただ、今後かなり早い段階でAIの答えの精度が劇的にあがることが予想されます。その時、私たちに必要とされる力は何でしょうか。そもそも『何を問い、何を解決したいのか』が明確でなければ、AIに聞くこともできません。新学習指導要領の下で、対話的活動が重視されていますが、対話型AIは、やりとりを重ねて子どもが考えを深めることができる相手になれる可能性があります。

 研究でAIは自然言語処理の過程でハルシネーション(幻覚)を起こす可能性があることがわかっています。ハルシネーションとは、もっともらしいウソ(=事実とは異なる内容や、文脈と無関係な内容)の出力が生成されることです。新井紀子氏(国立情報学研究所社会共有知研究センター長・教授) は「チャットGPTの『答え』が確率と統計に基づくものである限り、正しさについては今後も保証されることはない」「自分がよく知っていることに関する下書きにはチャットGPTは使える。しかし、自分がよく知らないことには使わないほうがいい。高い安全性や信頼性、真実性が必要なことには使ってはいけない。」と警鐘を鳴らしています。

 ダイナマイトは、土木作業に役立つ一方で、兵器に転用されれば人殺しの道具になります。同様にAIも道具です。コンピュータはハード面ソフト面双方で今後も加速度的に発達していくことは間違いないので、うまく付き合っていく方法を前向きに考えていったほうがいいでしょう。皆さんが、進学した時、就職した時、AIによって世の中はどう変わっているでしょうか。そうした変化に対応するためにも、高校時代にできるだけ汎用的能力を磨いてください。

写真の胡蝶蘭は、3月1日の卒業式にいただいたものと、6月1日現在のものです。3か月たつのに、まだこれだけ残っているのはすごいですよね。

天災は忘れたころに・・・

 今日は、短縮授業で6限終了後に地震避難訓練が実施されました。日本海側、太平洋側と、最近、地震が多いですよね。北朝鮮のミサイル発射でJアラートが話題となり、沖縄の人は不安だと思います。東日本大震災から12年が過ぎ、いまだに悲痛な叫びを伴った津波の動画はネット上でたくさん見られます。

 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがあるとおり、年に数回は危機管理の心構えを持ち直すことが必要だと考えます。学校は鉄筋コンクリートで通路も複雑ではないので、地震や火災などに強いと言えます。本校は海や大きな川の近くでもなく、山が側にあるわけでもなく、比較的安全な場所にあります。それでも避難訓練をするということは、実際の危険に対処する以外に、どこに行ってもその場所に合った避難をできるようにすること、つまり自分の頭で考えて安全を守る行動ができるようになることが目標だからです。これから先、旅行等でどんな場所で災害に遭遇するかはわかりません。避難経路の確認と万が一の時に冷静に周りの状況を見て、落ち着いて行動できるようになってほしいのです。

 学校は、校舎は頑丈で外に出やすいし校庭は広いので、避難自体はそれほど困難なことではありません。ただ、生徒と職員全部で800名近くになりますので、パニックを起こさず落ち着いて避難しないと、階段や通路で将棋倒しになって、地震や火災以外の面で怪我をする危険性があります。冷静に迅速に避難できるかが、どんな災害の場合でも求められます。1分1秒が生死を分ける避難もあります。「慌てず急げ」が合言葉ですよ。