日誌
2023年6月の記事一覧
小さな親切してますか?
1963年(昭和38年)の6月13日、「小さな親切」運動本部が発足しました。この年の東京大学の卒業式の告辞で、茅誠司総長が「小さな親切を勇気をもってやってほしい」と言ったことがきっかけとなりました。その後、実践例が新聞などで報じられ、社会から幅広い共感が寄せられ、6月13日のこの日に茅さんを始めとする学者・ジャーナリストなど8名の提唱者が運動を発足させたそうです。「できる親切はみんなでしよう 。それが社会の習慣となるように」、「人を信じ、人を愛し、人に尽くす」をスローガンに運動が進められています。
私が生まれた年に「小さな親切運動」が始まったのは興味深く、小中学校で覚えがあります。「大きな親切」は無理でも「小さな親切」はできるから、それを積み重ねていけば、よい社会になるはずという考え方は、至極真っ当で、文句のつけようがありません。一方で、「小さな親切大きなお世話」という言葉があることは、皆さんご存じでしょうか。「有難迷惑」という言葉もあります。自分では親切だと思ってやっていたことが、実は相手にとっては却って余計で迷惑以外の何物でもなかったという状況を表す言葉です。こんなことを言うのは教育的ではないかもしれませんが、みんながもっともだと思うことには落とし穴がありますので、さらによい意見が生成されると考え、大目に見てください。
「地獄への道は善意で舗装されている」「地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている」という格言がヨーロッパにはあります。「人の善意は悪意より恐ろしい」という言葉が日本にもあります。この解説として、「善意は基本的に気まぐれであり、継続性に難があるため、それを前提とした付き合いは、むしろ危険である。また、善意はそれだけで善いとされるため、生産性が問われることも少ない。故に、しばしば善意は悪意よりもたちが悪い。悪意を排除するのは大義名分もあり、容易いが、善意は排除しにくいからだ。」とあります。この「善意は排除しにくい」というのが曲者です。「善意でやってくれているのだから・・・」と拒否したいけどできなかったという経験はありませんか。
私は、被災地の支援に必要なものを送るという行為をニュースで見て、「小さな親切大きなお世話」を感じました。とても被災地で役に立たないものや、古着などゴミに近いものを送られても、それを整理しなければならない人にとっては「有難迷惑」のなにものでもないでしょう。実際、現場で被災した人たちが必要としているのは「善意」ではなく、必要なのは成果であり、生産性の高い活動であり、効率的な支援でしょう。自分の思い込みだけで気配りや心遣いが無いような親切心では、一方的に自身の行為を相手に押しつけるような形になってしまい、かえって相手に迷惑をかけ、最悪人間関係が壊れてしまうことにもなりかねません。
「自分がされたら嫌なことは他人にしてはいけない」と論語にあります。もっともらしいですが、自分と他者の感覚が同じであるという隠れた前提があります。では、自分が嫌じゃなければ問題ないのでしょうか。自分がされて嫌じゃなくても、相手が嫌がったらだめなんです。逆に「小さな親切」の場合、「自分がされてうれしいことは、他人もうれしい」という前提があって成り立ちます。何をするにしても、よくよく相手のことを考えてする必要があるってことですね。考えすぎると何もできなくなってしまいそうですが、お互い様ですから、多少は我慢しましょう。私は中学校の校外学習の帰りに電車の中でおじいさんに席を譲ろうとして「よろしければ、かけてください」と言ったら「私は、そんな年ではない」と断られてしまいました。白髪の十分なおじいさんだったんですけどね。それ以来、席を譲ろうと思っても、声掛けせずに席を立って移動することにしました。「小さな親切」が「大きなお世話」になってしまった思い出です。
楽器、弾けますか?
今日は「楽器の日」だそうで、一般社団法人・全国楽器協会(全楽協)が楽器を演奏する楽しさを知り、始めるきっかけの日としてもらうことを目的として1970年(昭和45年)に制定しました。一方で「恐怖の日」でもあるみたいで、キリスト教の聖典『新約聖書』の中で、世界の終末を描いた『ヨハネの黙示録』の13章16~18節に「獣の数字」として「666」という数字が登場します。キリスト教の影響下にある文化では、悪魔サタンや悪魔主義的なもの、反キリストにつながる数字とされ、「悪魔の数字」「不吉な数字」とされています。私が中学生の時に見た「オーメン」という映画は、頭に666のアザをもつ悪魔の子の物語でした。今日は、「恐怖」の話題は避けて、「楽器の日」にちなみ明るい話題にしたいと思います。
「楽器の日」が6月6日なのは、昔から「習い事・芸事は6歳の6月6日から始めると上達する」という言い伝えがあるからだそうです。また、数を指で折って数えると6の数字の時に小指が立つ形になり、「子が立つ」ともいわれ、縁起の良さもその由来とされています。昔は、栄養事情が悪く6歳までで死んでしまう子どもが多かったため、7歳未満の子どもは「神様」であり、神聖なものとして取り扱うべきだという「7つ前は神のうち」という言葉がありました。戦後、栄養事情がよくなり子どもが死ななくなり、生活に余裕が出て来ると、ピアノやヴァイオリンなどを習う子も出てきました。昭和45年というと私は小学2年生でしたが、ピアノ・ヴァイオリン・トランペットを習っている友達がいて、お金持ちだなと思っていました。
私は音楽の成績がほぼ「3」で「4」をとったのは2回くらしか記憶にありません。そんなわけで楽譜は読めませんでしたが、高校1年生の時に独学でアコースティックギターを練習して、タブ譜があれば弾けるようにはなりました。自分が好きな曲が弾けるようになったときは、うれしかったですね。弦を押さえる指先はかなり固くなりました。先日、軽音楽部について書きました。一人でメロディー楽器を弾くのもいいですが、リードギター・リズムギター・ベース・ドラム・キーボードなどが協力して一つの音楽を作り上げる喜びは、また別物だと思います。オーケストラが美しいシンフォニーを奏でるためには、異なる楽器が数多く存在し、それぞれが他の楽器の演奏にじっくり耳を傾けながら、自分の持ち味を最大限に発揮して演奏をします。演奏者相互の信頼と敬意、協調する気持ちが存在して初めて美しいシンフォニーが可能になります。社会や組織はオーケストラに例えられます。自分とは異なる個性をもった人々が協働しながら、自分の持ち味を最大限に発揮して貢献することで、より多くの人を幸せにできると信じて、最善を尽くすことで社会が発展していきます。皆さんも、自分の個性・長所を伸ばして、様々な人と協働できるようになってください。
※昨年の6月13日のブログに「音楽」が「音学」でない理由について書きましたが、音楽の「音」は歌声、「楽」は楽器の発する音を意味します。文学の学は学問の意味であり、音楽の「楽」は「かなでる」意味です。ですから、楽器は「音を奏でる器」という意味になります。
授業参観日記スタート!
6月に入ってから、先生方の授業を参観させてもらっています。本校のウェブページのトップに校長挨拶・ブログ通信というボタンがありますが、その右に「授業参観日記」というボタンを作ってもらいました。これから夏季休業に入るまでにすべての先生方の授業を見て、先生方がどのような授業をしてくれているかを綴ってウェブにアップしていきます。先生方がよい授業をしていても、外部はもとより、なかなか校内の先生方にも知ってもらう機会が少ないので、情報交換と広報を兼ねて、発信することにしました。今年の授業研究のテーマは「対話的学習活動」と「ICTの活用」です。これからの社会で生きていく上で、どのような力を身に付ける必要があるか、その力を身に付けてもらうためにどのような授業をしたらよいのか、日々悩んでいるところです。「不易流行」という言葉のとおり、教育の本質は変わらないとしても、時代が変われば、必要に応じて変わるものも出てきます。一人1台端末の活用もそのうちの一つでしょう。高校の教師にとっては専門科目の授業が「命」のはずなので、最も力を注ぐべきものです。しかし、実際には、授業以外にHR経営や校務分掌の業務、部活動指導、その他にも多くの業務があり、授業研究や準備にかけられる時間が十分とれているとは決して言えません。それでも、生徒の皆さんに自分が教える科目を好きになってもらって、できるようになってほしいという願いをもって、先生方は日々の授業の準備を一生懸命にして、教壇に立っています。授業は、先生と生徒が作り上げるライブです。教室はライブ会場です。ぜひ、みんなで盛り上がるように協力してください。