日誌

榎本校長のつぶやき

リカちゃん人形の行き着く先は?

 父の日に映画ミーガン(M3GAN…Model 3 Generative ANdroidの略称)を観てきました。「リング」や「呪怨」といった怖さとは違う怖さがある映画でした。妻と娘は恐いものが苦手なので付き合ってはもらえず一人で観てきましたが、劇場内はいっぱいで前から2列目で観る羽目になりました。子どものおもちゃは年々ハイテク化が進み、「たまごっち」とかが懐かしく感じられる昨今ですが、ミーガンは近未来としては凄すぎるおもちゃ?です。一言で言えばターミネーターの子ども版です。しゃべるおもちゃは今では珍しくもありませんが、ミーガンは第三世代のアンドロイドということで、学習機能があり、自らの意思をもつようになります。

 この映画のあらすじは、次のとおりです。おもちゃ会社の優れた研究者であるジェマという女性が、まるで人間のようなAI人形を開発しました。それは子供にとって最高の友達であり、親にとって最大の協力者となるようにプログラムされていました。会社でのプレゼンが成功し、発売へゴーサインが出ます。たしか100万円以上で販売される予定でした。それより以前に、交通事故で両親を亡くし孤児となった姪のケイディを引き取ることになったジェマは、販売前の実験段階のミーガンに対し「あらゆる出来事からケイディを守るように」と指示し、力を借りる事にしましたが、ミーガンが徐々に言うことを聞かなくなり暴走し始めます。結末は、とりあえずハッピーエンドなのかもしれませんが、ターミネーター2の結末のように切ない気持ちになりました。この映画は、近未来のAIが発達した世界に潜む危険性を描いてはいますが、同時に親と子、友達同士といった人間同士のコミュニケーションの大切さを描き、子どもが小さい時からスマホやタブレットを与え、親子の直接的コミュニケーションが不足する現在および未来への警鐘を鳴らしているようにも思えます。

 子育てには五つの態度が欠かせないと言われます。一つは常に子供に「寄り添う」こと、二つ目は「見守る」こと、三つ目は子どもをあるがまま「受け入れる」こと、四つ目は「待つ」こと、そして最後の五つ目は、子どもの声に「耳を傾ける」こと、です。映画の中でミーガンは、まさにこれらを実行していました。ミーガンが子どもにとって愛情の麻薬みたいなものになってしまう危険性を映画で感じられました。

 また、児童心理学者ベティー・ハートとトッド・リズリーの研究によれば、0歳から3歳の終わりまでの3年間で親が子どもにかけた言葉の数には、一番多い人と少ない人では平均で3000万語の差があるということです。驚きですね。発達の初期に子どもにかける言葉の数がその後の子どもの能力に比例するという結果でした。また、言葉の数だけでなく、どんな言葉がどのように発せられたかという言葉の質にも影響を受けることがわかりました。果たして、アンドロイドが親や友達の代わりになる日が来るのでしょうか。すると完璧な子育てができ、完璧な友達によっていじめはなくなるのでしょうか。人間とアンドロイドが共存する社会を描いたSFがありましたが、人間そっくりになって見分けがつかなくなったアンドロイドとの間にどんな問題が発生するのでしょうか。生徒の皆さんが子育てをする頃は、どんな世界になっているのでしょう。対応できるように汎用的能力、非認知能力を磨いていきましょう。

感情を込めて読んで、歌って?

 今日は、「朗読の日」だそうで、2001年に制定された、まだ新しい記念日です。「ろう(6)ど(10)く(9)」(朗読)と読む語呂合わせから日本朗読文化協会が定めたそうです。

 「朗読」と「音読」の違いはと言うと、「音読」には正確性が求められるのに対して、「朗読」は文章や詩歌の内容をくみ取り、感情を込めて読み上げるという表現力が求められる、というように目的が違うようです。朗読を芸術や学問、教育としてとらえる考え方もあり、「朗読」は「音読」の「芸術的形態」であると昔の学習指導要領書には書いてありました。中学校では、小学校での「音読=朗読」の基礎の上に(音読の芸術的形態として)「朗読」まで指導する、ということだったようです。

 平成29年度小学校学習指導要領国語科編の「解説書・文部科学省発行」には下記のように書いてあります。
 音読では、これまでに身に付けてきた、声の大きさや抑揚、速さや間の取り方といった音読の技能を生かすことが重要である。
 朗読は、読者として自分が思ったことや考えたことを踏まえ、聞き手に伝えようと表現性を高めて、文章を声に出して読むことである。音読が、文章の内容や表現をよく理解し伝えることに重点があるのに対して、朗読は、児童一人一人が思ったり考えたりしたことを、表現性を高めて伝えることに重点がある。 

 覚えたいことがあれば、黙読ではなく音読したほうがよいと言われます。小学校の時は、音読をよくしていたと思います。英語は、音読は必須ですね。古文漢文も音読が有効です。うまく音読できないところがあれば、そこは理解が不十分なところです。朗読は、親が子どもを寝かしつけるのに枕元で本を読んでいるイメージです。あとは、紙芝居ですね。私も子どもが寝る時に読み聞かせをしましたが、感情を込めて大げさに読んでいました。日本昔話のナレーションみたいな感じですね。

 感情を込めて読む訓練は、コミュニケーション力を高めるのにも役立つと思います。高校ではなかなか授業や学校行事で朗読する機会がないのが現状ですが、一日一回、意識的に朗読する時間をとってみてはいかかでしょう。住所や電話番号などを感情を込めて読む練習もあるということを聞いたことがあります。国語や英語以外の教科書を朗読するとどうなるのでしょうね。自分の好きな小説やマンガなら抵抗なくできるのではないでしょうか。楽しく表現力を高められるかもしれませんよ。眠気覚ましにもいいかも。ばかばかしいと思わず、ぜひ勉強の合間にやってみてください。

※今日は、元号の日でもあるそうですが、645年の事件をきっかけに、日本初の元号が制定されたことに由来しています。その時の元号は何でしたっけ?日本史で勉強したばかりですよね。現在の「令和」までいくつの元号が定められているでしょう?元号をなくして西暦だけにしろという意見も昔ありましたが、日本人は元号で時代を意識してきましたので、なかなか難しいですね。天皇制とも絡んできますし。

交通安全を自分事に

 今日は、6限のLHRの時間に交通安全教室を実施しました。普通、交通安全教室というと、警察から交通安全担当部署の方がいらしてビデオを見ながら、交通安全講話をしたり、校庭で安全運転講習をするとともに、スタントマンの方に自動車と自転車の事故を再現してもらったりというのが定番でした。普遍的な交通安全について学習することも、もちろん大事ですが、その学校の生徒が実際に通学する経路での危険個所について知り、どのように行動することが自分の身の安全を守るのかについて考えてもらうことも大切です。

 具体的な実施内容は、①交通委員2名がHR教室でクロームブックとプロジェクタを用いてクラスの生徒に自転車の安全運転とマナーの向上を呼び掛け、②学校近くの信号を左折する際の自転車走行についての動画や学校南側の道路での斜め横断の動画を視聴し、自動車のドライバー目線も見てもらい、正しい走行方法についての学習。③グーグルマップを用いて太田市中高生交通ハザードマップにアクセスし、自分の通学路上の危険個所を知り、クラスで共有する活動です。交通係の先生方が動画を撮影してくれて、自分事となる交通安全教室が実施できました。

 先日、第一回マナーアップ運動が行われましたが、ヘルメットの着用をしていない人、イヤホンをつけて運転している人、2列以上並列して運転している人、後方確認をしない人、そんな人は、ほとんど見られなかったようでよかったですが、地域の人から注意されることもあるのが事実ですので、太東生として看板を背負っているという意識をもって交通ルールとマナーを守って通学してくださいね。交通ルールを破らないための第一歩は、遅刻寸前に登校しないことです。生徒の皆さん、余裕をもって家を出てください。

「自分探し」より「自分作り」

 今日は、「〇〇らしさ」について思いつくまま書いてみます。世の中には「男らしさ」「高校生らしさ」「子どもらしさ」「先生らしさ」など、たくさんの「らしさ」があふれています。「らしさ」とは「思い込みと偏見」の押し付けだと思いますが、果たして100%間違っているかというと、そうとも思えません。多様性を認めれば、「らしさ」は消えるのでしょうか。

 「自分らしさ」とは何か、悩んだことがある人も少なくないと思います。自分は平凡だと思えば、なおさらでしょう。「自分らしさ」を探そうとすると、絶対的基準ではなく、どうしても他人と比較する相対評価が顔を出します。私という存在の実感は、誰かとの違いを明確にすることで確かめられるのでしょうか。だから、「自分らしさ」を見つけようとすれば、必然的に自分と他人を注意深く比較し、頭一つ抜けた自分の特徴を探し出すことが必要なのでしょうか。現在では、それを多くの他人の手に委ねて「自分らしさ」を認めてもらうために、SNSでフォロワーやいいね!をどうやって増やすかといった、数による承認欲求の充足という泥沼にはまってしまっています。「自分らしさ」は、自分以外の誰かとの比較競争に身を投じて勝利するしか、見つけられないのでしょうか。「自分らしさ」の3つのポイントとして①価値観を大切にして自然体でいる状態 ②他の人にはない自分の特性 ③自分自身で認める個性 を挙げているブログがありました。周りを気にして自然体でいられない人も多いのではないでしょうか。また、自己肯定感が低い日本人にとって「自分自身で認める個性」も見つからない人が少なくないのではないでしょうか。

 「自分の本当の適性というものは、やってみなければわからないという側面がある。何もしないのが一番いけない。まず第一歩を踏み出すこと。踏み出すという実践の中から視野は広がる。あまり狭く考えないほうがよい」と益川敏英(ノーベル物理学賞受賞)さんは、おっしゃっていますが、言い換えれば「自分らしさ」を見つけるためには、いろいろなことにチャレンジしたほうがよいということですね。先日、皆さんにとったアンケートの「身に付けたい力」の2位が「行動力」でしたから、ぜひ行動力を身に付けて、高校時代にいろいろなことにチャレンジし、「自分らしさ」を見つける、というより「自分らしさ」を育ててください。

虫どうですか?

 最近、ヤスデの大量発生に悩まされています。ヤスデって何?という人のために写真を載せたいところですが、気持ちのいいものではないのでやめておきます。隣の畑から発生しているらしいので、塀際と家の周りに忌避剤をまいていますが、完全に防ぐことはできません。家の中にも出没し、妻と娘が毎日叫んでいます。
 女性で虫が好きという人は、あまり見ませんが、私は小さい頃から百科事典の虫や動物の巻をページが手垢で汚れるほど読んでいましたので、あまり苦手意識はありません。さすがに毛虫とゴキブリは素手で触れませんが、母親の実家で蚕を飼っていて、手伝ったりしていたので、芋虫は大丈夫です。先日、庭と玄関先の鉢植えに2センチほどのかまきりの赤ちゃんを見つけ、可愛いと思いました。昔、ぐんま昆虫の森で、私の手のひらより大きいかまきりを見ましたが、素手で捕まえるのはあきらめました。虫を近くで観察するのは、おもしろいですよ。
 日本では、虫に親しむ文化がありますが、外国ではあまりないようです。例えば、鈴虫などの秋の虫の音は日本人は風流に感じますが、外国人には雑音でしかないようです。セミやカブト虫、くわがた、蝶などを捕りに行って標本にする昆虫採集や、幼虫から育てるなどの文化は、外国にはないようで、家の中で昆虫を育てたり飼ったりすることには驚かれるようです。ということは、ぐんま昆虫の森みたいな施設は外国にはないのでしょうね。もちろん、藪塚の蛇センターみたいな施設もないのでしょうね。キリスト教では、蛇はアダムとイブをそそのかして神の怒りにふれ、地上で地べたをはうことになってしまった動物ですから。
 虫を題材にしたことわざはたくさんありますが、「一寸の虫にも五分の魂」はよく知られていると思います。どんなに小さな虫にも魂があり、命の尊さを表していますが、転じて、小さくて弱い者でも、それ相応の意地や根性があるため、どんな相手でも侮ってはならないという意味があります。昔、読んだ楳図かずおのマンガに昆虫採集をして手当たり次第に虫を標本にしている少年が虫の姿にされてしまい、一本足の巨大な妖怪少女が釘となって巨木に標本のように少年を打ち付けるというものがありましたが、虫をテーマにしたマンガには恐いものが多かったです。「ある朝、 グレゴール・ザムザが目をさますと、 自分が一匹の巨大な毒虫に変わっているのを 発見した。」で始まるカフカの「変身」は有名ですが、もし自分がそうなったらと思うと身の毛がよだちます。ゴキブリは殺して、蝶は助けるというのは、人間のエゴですよね。私は、家の中に出る虫でも、蜘蛛はなるべく捕まえて庭に逃がすようにしています。害虫と益虫の区別は人間の御都合ですが、これもエゴでしょうか。皆さんはどう思いますか。生理的な嫌悪感はどうにもならないものですし、理性的に対応しようと思っても厳しいものがありますよね。
 虫の能力は、実はすごいというのが「仮面ライダー」で表現されていますが、「アラクニド」や「キャタピラー」というマンガにも、虫のすごさが描かれていて詳しい説明もあり、勉強になります。地球上に存在する種は総数180万と言われていて、そのうち100万種以上が昆虫であり、昆虫は地球上の王者です。人類が滅亡しても生き延びるでしょう。人類は、科学の力で昆虫のすごいところを取り入れて、生き延びることができるでしょうか。

※問題 文中の4コマ漫画は、カフカの「変身」のパロディですが、『サラリーマン』という語句を用いて、どこが面白いのかを100字程度で説明しなさい。(出典 《サラリーマン講座》情呆辞典 山科けいすけ著)

解答例 甲虫に変身して慌てている理由がネクタイが締められないというオチと、遅刻しそうだと飛んで出勤するオチで、甲虫になってしまった重大さよりも会社を優先してしまう悲しいサラリーマンの習性を描いているところ。(99字)