日誌

榎本校長のつぶやき

小さな親切してますか?

 1963年(昭和38年)の6月13日、「小さな親切」運動本部が発足しました。この年の東京大学の卒業式の告辞で、茅誠司総長が「小さな親切を勇気をもってやってほしい」と言ったことがきっかけとなりました。その後、実践例が新聞などで報じられ、社会から幅広い共感が寄せられ、6月13日のこの日に茅さんを始めとする学者・ジャーナリストなど8名の提唱者が運動を発足させたそうです。「できる親切はみんなでしよう 。それが社会の習慣となるように」、「人を信じ、人を愛し、人に尽くす」をスローガンに運動が進められています。

 私が生まれた年に「小さな親切運動」が始まったのは興味深く、小中学校で覚えがあります。「大きな親切」は無理でも「小さな親切」はできるから、それを積み重ねていけば、よい社会になるはずという考え方は、至極真っ当で、文句のつけようがありません。一方で、「小さな親切大きなお世話」という言葉があることは、皆さんご存じでしょうか。「有難迷惑」という言葉もあります。自分では親切だと思ってやっていたことが、実は相手にとっては却って余計で迷惑以外の何物でもなかったという状況を表す言葉です。こんなことを言うのは教育的ではないかもしれませんが、みんながもっともだと思うことには落とし穴がありますので、さらによい意見が生成されると考え、大目に見てください。

 「地獄への道は善意で舗装されている」「地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている」という格言がヨーロッパにはあります。「人の善意は悪意より恐ろしい」という言葉が日本にもあります。この解説として、「善意は基本的に気まぐれであり、継続性に難があるため、それを前提とした付き合いは、むしろ危険である。また、善意はそれだけで善いとされるため、生産性が問われることも少ない。故に、しばしば善意は悪意よりもたちが悪い。悪意を排除するのは大義名分もあり、容易いが、善意は排除しにくいからだ。」とあります。この「善意は排除しにくい」というのが曲者です。「善意でやってくれているのだから・・・」と拒否したいけどできなかったという経験はありませんか。

 私は、被災地の支援に必要なものを送るという行為をニュースで見て、「小さな親切大きなお世話」を感じました。とても被災地で役に立たないものや、古着などゴミに近いものを送られても、それを整理しなければならない人にとっては「有難迷惑」のなにものでもないでしょう。実際、現場で被災した人たちが必要としているのは「善意」ではなく、必要なのは成果であり、生産性の高い活動であり、効率的な支援でしょう。自分の思い込みだけで気配りや心遣いが無いような親切心では、一方的に自身の行為を相手に押しつけるような形になってしまい、かえって相手に迷惑をかけ、最悪人間関係が壊れてしまうことにもなりかねません。

 「自分がされたら嫌なことは他人にしてはいけない」と論語にあります。もっともらしいですが、自分と他者の感覚が同じであるという隠れた前提があります。では、自分が嫌じゃなければ問題ないのでしょうか。自分がされて嫌じゃなくても、相手が嫌がったらだめなんです。逆に「小さな親切」の場合、「自分がされてうれしいことは、他人もうれしい」という前提があって成り立ちます。何をするにしても、よくよく相手のことを考えてする必要があるってことですね。考えすぎると何もできなくなってしまいそうですが、お互い様ですから、多少は我慢しましょう。私は中学校の校外学習の帰りに電車の中でおじいさんに席を譲ろうとして「よろしければ、かけてください」と言ったら「私は、そんな年ではない」と断られてしまいました。白髪の十分なおじいさんだったんですけどね。それ以来、席を譲ろうと思っても、声掛けせずに席を立って移動することにしました。「小さな親切」が「大きなお世話」になってしまった思い出です。

「大丈夫!」

 今日は、「ダウン症の書家」として知られる金澤翔子さんの誕生日です。私が彼女を知ったのは、PHPという雑誌の中の連載ですが、校長室の机の前には校歌とともに日めくりカレンダーが二つ掲示してあり、席の後ろの黒板には、書のコピーが9枚貼ってあります。彼女は、5歳から母の師事で書を始め、20歳で銀座書廊で個展を開催したのち、伊勢神宮や東大寺をはじめ、延暦寺、中尊寺、建仁寺、熊野大社、厳島神社、大宰府天満宮など名だたる神社仏閣の総本山にて奉納揮毫や個展を開催してきました。ニューヨーク、チェコ、シンガポール、ロシア、台湾など海外でも個展を多く開き、成功しています。また、バチカンに大作「祈」を寄贈しローマ教皇庁より金メダルが授与されています。 そのほか、国連本部でのスピーチや国体開会式での巨大文字揮毫、NHK大河ドラマ「平清盛」揮毫、天皇御製謹書など活動の幅は多岐にわたり、紺綬褒章を受章しています。

 絵でも書でも、「ただうまい」ものと「人に感動を与える」ものは、天と地の差があると思います。人の感性に訴える作品は、うまく言語化して説明できない場合もあります。表現できる言葉が見つからないのは,恋や愛の歌にもありますね。感動したり感激したりしたことを、言葉で伝えて共有するためには、やはり語彙力が必要になってきます。先日、グーグルフォームで生徒の皆さんに「高校で身に付けたい力を3つ選んでください」というアンケートをしましたが、1位は2位の「行動力」(33.2%)を大きく引き離して、48.2%と断トツでコミュニケーション力でした。コミュニケーション力も非認知能力として非常に大切ですが、その手段として大切なのが語彙力ですので、こちらも高める努力も怠らないようにしてください。

「くう ねる あそぶ」の意味

 皆さんは、「遊ぶ」ことに対して、どんなイメージを持っていますか。「遊ぶ」の対義語は何だと思いますか。諸説ありますが、正解は何でもよくて、自分がどう考えるかだなと思います。解答例には、「働く」「休む」「学ぶ」などがあります。

 「遊び」というと思い出されるのが、後白河法皇が編纂した今様集『梁塵秘抄』の中にある「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ」です。日本史を選択している皆さんは、授業で学びましたか?このうたを解釈すると「子どもたちは遊びたくて生まれてきたのだろうか。ふざけたりイタズラするのが楽しくて生まれてきたのだろうか。子どもたちの楽しそうな笑い声を聞くと、私も遊びたくなって体がムズムズしてしまうよ。」とでもなるのでしょうか。このうたは、立場から二つの解釈があるようですが、興味をもった人は調べてみてください。

 さて、「遊ぶ」ことについて、次のような文章を見つけたとき、私は「遊ぶ」の対義語は「休む」かなと思いました。「働く」ことにも「学ぶ」ことにも「遊び」の要素を取り入れてこそ、楽しくできるのではないかと考えます。

 「遊ぶこと」は、「決して楽なことでも、息抜きでも、気晴らしでもない」「自分自身のすべてをかけた緊張感や張りのあるスリリングでリスキーな行為であり、何かを学ぶための手段や方法におさまるようなものではない」「子どもにとっては、いつでも最も集中しているのは遊んでいるときであり、遊んでいる時以上に真剣な時はない」「子どもたちは、遊びの中で最高に洗練された人間らしい重要な能力を発揮しているのだ」 

 「遊び」の中で、学び、働き、能力を発揮する。なんてすばらしい。先日の体育祭も、遊びの中に学びがあったのか、学びながら遊んでいたのか、どちらでもいいですよね。準備の段階から実施まで、色々なことが楽しみながら学べたのなら。学校の教育活動が、すべて遊びの視点から捉えなおせたら、面白くなりますね。

※ちなみに「くう ねる あそぶ」は、1988年の車のCMのキャッチコピーです。ミュージシャンの井上陽水が、車の助手席から「皆さん、お元気ですか~」と言うのが話題になりましたが、ある事情で音声が消えました。気になった人は、調べてみてください。日本の社会について考えることができます。

体育祭を終えて、次なる団体戦へ!

 今日は、体育祭を実施しました。先日ほど暑くならず午後からは曇って気温も下がり、よいコンディションでできました。午前中は日が差して少し暑かったので、体調不良者が数名でましたが、足のケガ等、全体的に昨年よりも少なかったので、ほっとしています。午前中は、みごとな日がさと飛行機雲が空にあり、天気予報通り明日の雨を予想できました。今年も生徒会と有志の実行委員の皆さんが頑張って、生徒が主体性をもって体育祭を作れたことをうれしく、誇らしく思います。それを支援していただいた先生方、ありがとうございました。

 昨年の体育祭では、まだコロナ感染に留意して、競技種目を変更したり、応援もスティックバルーンを使って声を出さないようにしたりして、感染防止の工夫をしていました。今年もまだコロナが消滅したわけではないので、注意を促していました。ただ、コロナが5類に引き下げられたので、昨年よりマスクを外せるようになり、声も出せるようになり、円陣を組んでの声出しも見られ、活気ある体育祭ができました。

 私が年をとったからか、生徒の若いエネルギーに圧倒されるとともに、元気ももらっています。応援合戦は、よく短期間でこれだけのパフォーマンスができるように練習したなと相変わらず感心し、皆さん楽しそうにダンスしているので、一緒に踊りたくなりました。丸太取り合戦では、男女とも勝利への闘争心にあふれていて、つい見ていて力が入ってしまいました。

 得点集計までの時間に、チアリーディング部が1年次生のお披露目も兼ねて、パフォーマンスを披露してくれました。チアリーディング部の皆さんも疲れているのに大丈夫かなという心配をよそに、土の校庭の上で見事な演技をし、全校生徒をわかせ、盛り上げてくれました。ありがとうございました。

 来年は、さらに工夫して、(もっと)2盛り上がる体育祭にしてください。それと、昨年の体育祭の日のブログに「学校行事での感動が大きいほど、受験への切り替えもうまくいく」と書きましたが、3年次生の皆さん!今度は全員での団体戦になります。頑張ってください。

「真善美」と「誠明健」

 自分が何者なのかを考える一つの指針に「真善美」があるといいます。〈真〉は、自分は何を信じるのか、〈善〉は、何がよいことだと思うのか、〈美〉は、何を美しいと感じるのか、ということです。あなたの「真善美」は何ですか。『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は、フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵画の作品名です。彼は、故郷のフランスよりも素朴で単純な生活を求めて、1891年にタヒチ島に渡り、そこでこの絵画を描き上げました。素朴で根源的な疑問ですが、考えることがばかばかしいと思うか、それとも答えは出ないけれどもとことん考えてみようと思うか。皆さんは、どちらですか。「美しさ」と言えば、ブルーハーツの『リンダリンダ』を思い出します。その冒頭の歌詞は「ドブネズミみたいに 美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから」でした。考えれば考えるほど、絶対的な「真実」や「善」や「美」などないと思い至ります。人それぞれみんな答えが違うので、自分がどんな人間なのかを知る根拠になります。尾崎豊は『15の夜』で「自分の存在が何なのかさえわからず震えている15の夜」と歌いましたが、誰にもわからないことだと思います。一生懸命生きたら、死ぬ間際にわかることかもしれません。自分が何者かを考える材料に「誠明健」はどうでしょう。一般に定義されている意味ではなく、自分はどう解釈するのか。生徒の皆さんなら、「誠明健はそれぞれどんな意味なのか、自分なりに説明してください」と言われたら、どんな説明をしますか。