日誌
榎本校長のつぶやき
主体的に高校生活に取り組む態度「A」
今日は、対面式と部活動紹介、体育祭の団色決めがありました。体育館に全校生徒が集まったのは3年ぶりです。幸せな光景でした。私が高校1年生で対面式での洗礼を受けたのは、45年前のことでしたが、上級生に圧迫されて入場したのを覚えています。太東では、優しく面倒見のよい先輩が、入場と退場時に花道を通る1年次生に温かい拍手を送ってくれました。部活動紹介では、凝った動画による紹介やステージ上での部員による紹介、ステージ下でのパフォーマンスなど、盛りだくさんで、1年次生だけでなく、上級生も楽しんでいました。吹奏楽部の演奏からチアリーディング部の締めのパフォーマンスまで、長時間に渡りましたが、中身が濃く短く感じました。ボクシング部の練習風景やフラダンス同好会のダンス、少林寺拳法部の演舞、チアリーディング部のパフォーマンスはなかなか間近で見る機会はないので、1年次生は「高校ってすごい!」と思って見ていたと思います。体育祭は、1年次生から3年次生をクラスごとに立て割りにして6団作り、6団での対抗戦になります。3年次の各クラスから一人ずつ団長が選ばれ、団色決めを行い、必勝表明をし気勢をあげました。きっと盛り上げてくれることでしょう。
高校は小・中学校と違って生徒数が多いので、色々なことに興味をもって、チャレンジすれば、必ず自分と趣味の合う友達、気が合う友達が見つかるはずです。体育祭を手伝ってくれる有志を募っていましたが、自分から動くことで得られるものも多くなります。ぜひ積極的に参加してください。部活動では、2足の草鞋を履いている人も多いので、時間を有効に使って勉強以外にも打ち込める好きなものを見つけてください。それが勉強にもいい影響を与えて相乗効果を得ることができます。高校生活を充実したものにするために、ぜひ主体的に取り組んでくれることを期待します。
みんなで外せば怖くない?
今日、明日と1年次生は、オリエンテーションです。コロナ前は1年生のオリエンテーションを宿泊研修でやっていた学校も多かったですが、残念ながら、まだ宿泊研修できる状況にはありません。1年次生にとっては、特に4月は高校生活のスタートを切る大事な時期であり、高校総体も控えています。もしコロナに罹患すると1週間、濃厚接触でも5日間の出席停止になってしまいますので、5月8日にコロナが5類扱いになるまで慎重にいきたいと思います。昨日の入学式でも生徒・保護者全員が、マスクをつけていたと思いますが、街中でもマスクを外している人がほとんど見られません。一人で自動車に乗っている人、田舎道で犬の散歩をしている人、自転車に乗っている人、空いている店内など、外してもいいんじゃないかと思われるシチュエーションでも外している人が滅多に見られません。私は何度かマスクを外してコンビニに入りましたが、私以外はみんなマスクをしていました。とにかく、周りに人がいない、しゃべらないなら積極的に外したほうがいいんじゃないかと思います。ツービートの「赤信号 みんなで渡れば怖くない」が流行語になったのは、もう40年以上前ですが、2021年に三省堂の国語辞書に載りニュースになりました。別にマスクを外すのは法令違反でもなく、政府も奨励しているわけですが、日本人の集団心理からすると抵抗なくマスクが外せるようになるのは、まだ時間がかかるかもしれませんね。今日は夏日になる予報が出ていますが、少しマスク外してみませんか?
先輩から後輩へ
今日は、卒業生33名が在校生のために「卒業生からのアドバイス」という進路行事のために来校してくれました。1年次生は体育館で、2年次生は各クラスに分かれて座談会方式で実施しました。プライベートな時間を割いて後輩のために集まってくれた卒業生の皆さんに感謝です。身近な先輩方が、高校時代にどのようなことを考え、勉強と部活の両立を図っていたのか、自分に合ったどのような勉強を工夫していたのか、が聞けてこれから残りの高校生活の過ごし方の参考になったと思います。ぜひ、今度は1、2年次生の皆さんが後輩のためにアドバイスできるように、進路実現に向けて頑張ってください。それと、今日の入学者選抜合格者説明会に来た皆さん、来月10日は入学式です。最高の高校生活のスタートができるように準備してください。
「幸」と「辛」
昨年4月27日のブログで「吐く」から「マイナス」をとると「叶う」になるという話を書きました。漢字ができたときに「マイナス」という観念はないので、完全にこじつけですが、妙に納得できるきれいさがありました。同様に「幸」は「マイナス」をとると「辛」になります。「叶う」と同じ論理ではおかしくなります。では、「辛」に「一」を足すと「幸」になると考えるとどうでしょうか。この「一」が何を意味するかは、人それぞれでしょう。細かいことを言えば「一」ではなく部首の「なべぶた」が乗る感じですが、そこは突っ込まないでください。私は「辛い」は、どちらかと言えば、肉体的よりも精神的に苦しいときに使う気がします。辛い時に自分で何をすれば「幸」に変えられますか。また、人からどんな言葉をかけてもらえたり、どんなことをしてもらえたりしたら「幸」になりますか。ザ・ブルーハーツの「情熱の薔薇」という曲に「なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めよう そんな気持ち分かるでしょう」という歌詞があります。皆さんは、この気持ちがわかりますか。
うわさを信じちゃいけないよ♪
皆さんは、日本史や世界史、そして政治経済などで「金融恐慌」や「世界恐慌」を学んだと思います。「金融恐慌」とは、天災・内乱、景気の悪化などで、企業を結ぶ貸借の決済が不可能となり、信用関係が急激に崩壊して、預金の取り付け、銀行の支払停止および連鎖倒産などで、金融界全般に混乱が起こることです。日本では関東大震災からの「震災恐慌」、その後の「金融恐慌」が有名です。
信用経済と言われる経済活動の中で、多くの企業と金融機関が関係してお金とモノ・サービスが世界中で取引されています。ただ、お金そのものには価値はありませんので、モノ・サービスの供給量によっては、お金の価値が暴落するということが起こります。先日、3月10日にアメリカのシリコンバレーバンクで預金者の取り付け騒ぎが起こり、経営破綻に追い込まれました。日本では1927年に大蔵大臣の失言から銀行で取り付け騒ぎが起こり、昭和金融恐慌に発展しました。銀行が倒産するかもしれないと思えば、預金者が自分の預金を確保するために引き出しに走るのは、当然です。アメリカでは預金が3000万円までなら法的に保護されるのですが、シリコンバレー銀行の9割の預金は3000万円以上だったため、預金者を守ることで危機を回避しようと「預金全額を保護する」という異例の措置で収拾を図りました。金融機関が本当の危機にあるのか、それとも流言(デマ)による危機の誇張かに関わらず、預金が大量に引き出されて倒産に追い込まれるという事態が起こると、それは一銀行だけでなく連鎖して他の銀行や企業に及び、一国の経済だけでなく世界経済に影響を与えることもありえます。2008年のリーマン・ショックは世界経済に大きな影響を与えました。今回のシリコンバレーバンクの破綻は、主な取引先がIT業界であることから、事態は大部分がオンラインで展開されたことによるものです。大量の預金がオンラインで引き出され、その発端は非公開のチャットグループだったと伝えられており、SNSでパニックに火が付いて、預金引き出しが加速化しました。この事態を後に米下院金融サービス委員会のパトリック・マクヘンリー委員長は、「ツイッターにあおられた初の銀行破綻」と表現しました。世界恐慌の時のような大勢の預金者が銀行に詰めかけた取り付け騒ぎはなく(少しはありましたが)、昔とは様変わりしたようです。
金融機関で、噂の恐さを物語る事件が昔ありました。1973年、登校中の列車内で高校生BとCが、豊川信用金庫に就職が決まった友人の女子高校生Aに対し「信用金庫は危ないよ」とからかいました。この発言は信用金庫の経営状況を指摘したものではなく、「信用金庫(などの金融機関)には強盗が入るため危険」という意味の冗談でしたが、Aはそれを真に受け、その夜、親戚に「信用金庫は危ないのか?」と尋ねました。Aは具体的な信用金庫の名称は言わなかったものの、親戚の人は豊川信金のことだと自分で判断して同信金本店の近くに住む親戚に「豊川信金は危ないのか?」と電話で問い合わせました。そこからは、噂に尾ひれがついて広まり、預金を下ろす人が殺到して取り付け騒ぎとなり、日本銀行と警察が動いて沈静化を図るという事態にまで発展しました。日本では、この事件より前の1971年に成立した預金保険法で、預金保険機構の裏付けのもと、預金保険制度に加盟している金融機関が破綻した場合、当時は100万円まで「預金者への保険金の直接支払い」が保証されていましたが、一般の認知度が十分ではなかったことも騒ぎが大きくなった原因です。現在は、1000万円まで補償されています。
「火のないところに煙は立たない」とは言いますが、現在はSNSであっという間に様々なことが拡散される時代ですので、悪意のある噂が流されれば、それを消すのは容易ではありません。デジタルタトゥー(刺青)の名のとおり、ずっとデジタル空間に残り漂い続けます。飲食店が悪意のある口コミによって苦境に陥ることもあります。言葉にせよ、写真や動画にせよ、デジタル全盛の時代では、すべてのことを一度疑ってかかることが必要なのかもしれません。悲しいことですが、だまされないために。
略語の未来(RGM)
このブログは、学校でのことを第一にして話を広げていくようにしていますが、それができないときは「今日は何の日」や「時事ネタ」から発展させて書き、それでもこれはというものがないときは「ネタ帳」から探してきます。今日は略語について書こうと思います。
さて、3月9日のブログで私が日本語の中で美しいと思っている言葉として「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」をあげました。ただ、これらの言葉が略されることも運動部では多いようで、「こんにちは」が「ちはっ」に、「ありがとうございます」が「あざすっ」に略されて普通に使われています。残念ながら美しい言葉とは言えません。言葉は生きているので、時代によって変わっていくのはある程度仕方ないとは思いますが、省略されたものが広まりすぎないようにしてもらいたいです。ただ、「こんにちは」「さようなら」も略語なので、これ以上短くなってほしくないですね。11月30日のブログで書きましたが、「こんにちは」は「今日(こんにち)は、お元気ですか。」「今日は、ご機嫌いかがですか。」などが略されたものですし、「さようなら」は、「左様(さよう)ならば、ご機嫌よう。(また、お会いしましょう)」の略語です。私は「気にするな」という意味の「ドンマイ(Don’t mind)」というかけ声が好きですが、最近あまり聞かなくなったような気がします。「試合中のミスに萎縮して、また失敗しないように励ます言葉で、「ガンバレ」というソフトな圧力がある言葉ではないので好きです。
略語とは認識していない言葉もたくさんあります。「ボールペン」「シャーペン」「食パン」「経済」「教科書」などは、皆さんがよく知っていて普段使っている言葉ですね。このくらいならば許容範囲だと思いますが、高校生の頃に読んだ「産業士官候補生」(眉村卓著)という小説の中で、効率を極端に進めた結果、最小限の言葉による人間味のないロボットのような会話がされるシーンがあり、印象に残っています。言葉を略しすぎて、日本人同士でも翻訳機が必要になる、そんな未来がこないことを祈っています。
あなたは、神仏を信じますか?
WBCが開幕し、昨日は日本VS中国で日本が快勝しました。現在、ラグビー、サッカーに続いて野球が盛り上がっていますが、連日報道されている大谷選手の経済的効果はすごいですね。次は8月にバスケットボールワールドカップが日本、インドネシア、フィリピンで開催されます。楽しみです。
さて、最近、気になっているニュースの中で宗教2世問題があります。昨年の7月8日に安倍晋三元首相が殺害された事件の犯人の動機から、宗教団体と政治家の関係が取り沙汰され、多くの問題が報道されるようになってきました。一つは多額の献金によって、家計が影響を受けて家庭が崩壊する問題で、もう一つは、保護者による子どもへの信仰の強制や虐待です。それに関連してエホバの証人による輸血拒否が、最近のニュースで取り上げられましたが、1992年に起こった信仰による輸血拒否事件は、私も現代社会や政治経済の授業において取り上げました。宗教教育と政治教育は、教師の考えを押し付けることなく多くの資料から公平公正な授業を行わなければなりません。多くの人の意見や考えから学び合うことが必要です。成人であれば、信仰の自由と人格権を主張して、輸血しない場合に死んでもかまわないと覚悟して輸血を拒否するのなら仕方ないのかもしれませんが、未成年、特に小学生以下の子どもについて信仰を強制したり教義に基づいて意に添わぬことを強制したりすることは、親権の濫用であり、人権尊重の観点から許容できないと私は考えます。日本人は、よく「無宗教」と言われますが、決してそんなことはなく、特定の宗教に深く関わっていない人が多いだけで信仰心はほとんどの人がもっていると思います。この我々が生きている地球と宇宙の存在と神を同一視して畏れる心が、無意識下にあるといっていいでしょうか。宗教は、本来、人が心の平安を求めて創始したはずです。その宗教によって苦しんでいる人が多くいることは、なんとも皮肉です。「信ずる者は、救われん」(聖書に語源)「いわしの頭も信心から」(一旦信じてしまえば、どんなものもありがたく思える)という言葉がありますが、「苦しい時の神頼み」が多くの日本人の実感に合っているのかもしれません。皆さんは、最後の心のよりどころをもっていますか。
明日は明日の風が吹く
本日は、後期入学者選抜の1日目で、国語・数学・社会の3科目の学力検査が実施されました。天候に恵まれ、コロナとインフルエンザ等の欠席者や遅刻者もなく、志願者全員が最後まで受検することができました。受検生の皆さん、今日の試験を終えて一喜一憂していることかと思いますが、今日のことは一旦忘れて、気持ちを切り替えて明日の理科と英語の学力検査に臨んでください。「やめっ! 筆記用具を置いてください」の声を聞くまで、どうなるかわかりません。最後まであきらめることなく検査問題に取り組んでください。それでは明日、無事に忘れ物なく本校に到着するように願っています。今夜はしっかり睡眠をとってくださいね。
こころの駒に最後の鞭を!
早いもので、令和5年も2か月が過ぎてしまいました。今日は卒業式予行と表彰式、同窓会入会式が行われました。久しぶりに登校した3年次生は、卒業アルバムや生徒会誌、各種たより、新聞を渡されて、明日卒業するんだなと改めて実感したことでしょう。予行をすることについては、「しないほうが感動があっていいんじゃないか」という意見、また「予行で卒業への気持ちを高められる、心の準備ができる」という意見もあることでしょう。卒業式は、卒業パーティーではなく、儀式的行事として定められていますので厳粛な雰囲気の中で行われることが普通です。入学式や卒業式の緊張感は、普段なかなか感じられないものなので貴重な機会だと思います。卒業生の皆さんは、小・中学校の卒業式で式歌として「旅立ちの日に」、「仰げば尊し」、「蛍の光」、「手紙」などを歌った人も多いかもしれません。ここ3年コロナで卒業式での歌唱がなくなっていて寂しい感じがします。これらの歌を聴いていると、卒業を実感して涙腺が緩んでしまいます。私は恥ずかしながら卒業式で泣かずに済んだことがなく、泣いている卒業生を見ることでもらい泣きしてしまうことはもちろん、校歌・式歌・送辞・答辞・謝辞が涙腺を攻撃してきてうるうるしてしまうため、なるべく見たり聞いたりすることに注意を集中しないようにしています。特に壇上にいる時は、ハンカチで拭くことができませんので、必死で我慢しています。「男は人前でむやみに涙をみせるものではない」という考えは、現在では男女差別につながるのでNGだと思いますが、なかなかそう簡単に意識は変えられないようです。「嬉し涙ならいいかっ!」と開き直って明日の卒業式に臨みます。3年次生の皆さん、明日は思い出に残る卒業式にしましょう。それと、皆さんの校歌が聞こえないと泣けません。よろしく!
Believe in yourself.
誰でも口癖の一つや二つはもっています。なくて七癖とは言いますが、「えーと」「あのー」とかは、一般に無意味なつなぎ言葉「フィラー」(英語だと「well」「um」など)と呼ばれます。口癖は、基本的には無害ですが、あまり多いと気になりますね。ただ多ければ多いほど、話にスピード感とキレとリズムがなくなりますので、少ないに越したことはありません。生徒が先生の口癖を1時間の授業で何回言うかを数えた話も珍しくありません。20年ほど前から自分の授業をビデオで撮影して検討する研修を行っていますので、現在では多くの先生が自分の授業を客観的に見た経験があり、改善を図っていると思います。
口癖の中で「でも」「だって」「どうせ」の三つは3D(だめ)言葉です。口癖になっている人は、気をつけましょう。「でも」「だって」「どうせ」は、相手の気分を害すると同時に自分の気持ちも下げる言葉です。発した言葉には魂が宿る「言魂(霊)」を信じるならば、後ろ向きの言葉を発していれば、どんどん運気を下げることになってしまいます。「でも」「だって」は、口答えの言葉であり、言い訳、反抗の言葉です。この言葉を出さずに「なるほど、確かにそうですね」というクッション言葉が出れば、その後の提案が受け入れられやすくなるのではないでしょうか。もちろん「申し訳ありませんでした」「ごめんなさい」という言葉を先に言ったほうがいい場合もあるでしょう。「どうせ」の後には、「(自分なんか、私たちなんか)~できる(になれる)はずがない」という言葉が続くことが多いと思いますが、個人でも集団でも、見限ったら、諦めたら、そこで終わりです。最後まで自分(たち)を信じてやれるのは自分(たち)しかいません。本日、後期入学者選抜の願書受付が始まりました。太東を志願してくれている中学3年生の皆さんが、自分を信じて本番の3月8日、9日を迎えてくれることを祈っています。
サクラ咲く、まだまだこれから
今日は、高校入学者前期選抜の合格発表が午前10時から各学校及びweb上で行われました。喜ぶ人が半分、後期選抜に向けて気合を入れ直す人が半分です。合格した皆さん、おめでとうございます。残念ながら合格できなかった皆さん、後期選抜まで2週間、気持ちを一新してできることをやりきって検査に臨んでください。2週間で、前期合格者を追い抜く気持ちで、勉強してください。4月からの高校生活に必ず生きてきます。
さて、web上で合格発表がされるようになってから、学校まで発表を見に来る人はほとんどいなくなってしまい、発表現場は寂しい限りです。合格発表で私の記憶に残っている光景は、30年以上前の初任校での発表です。受験番号をマジックで書いた模造紙を同窓会館の2階の手すりから下げていました。たくさんの受検生がこちらを見上げています。発表時間になって、バサッと掲示すると、一瞬間を置いて「ワーッ!」と歓声があがります。「受かった!」「やった!」という声が聞こえてきます。しかし、たくさんの笑顔の中で落胆の表情を浮かべ、会場を背にする生徒を見ると複雑な気持ちになります。科ごとに合格発表の掲示板を立て、その横で合格手続きをしていた高校で勤務していた時は、受検生がすぐ近くにきて落胆して背を向けて帰る姿を見るのは辛かったですね。「艱難汝を玉にす」という言葉がありますが、逆境や挫折を知らないと、真に強くはなれないと思います。自分の心を強くするとともに、人の気持ちがわかる人間になるために、困難に遭遇した時に「ありがたい」と思える心の余裕を持ちたいものです。
運命の1冊
「1万円選書」というのを聞いたことがありますか?2018年4月23日のNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」で「運命の1冊、あなたのもとへ~書店店主・岩田徹~」というタイトルで放送され話題になりました。それは、1万円分の本を選び、届けるサービスで、経営難に喘いだ岩田徹さんという本屋の店主が始めました。お客さんに本に関するカルテに記入していただき、その内容からお客さんに合った本を紹介するものでしたが、始めた当初は7年間で、月に1件注文がはいるかどうかで店がつぶれる瀬戸際でした。そんなとき、ある深夜番組で「1万円選書」が取り上げられ、瞬く間にSNSで拡散されたのです。翌朝には「1万円選書」が、インターネットの検索急上昇ワードにトレンド入りし、選書の申込は、放送3日後には、550件に達し、いったん締め切る事態となりました。「本屋の神様はいたんだ!」と岩田さんの奥さんがつぶやいたのが岩田さんは忘れられないそうです。明日何が起こるかわからないからこそ、今を一生懸命に打ち込む、それが岩田さんのモットーです。彼はこうも言っています。「地方の本屋のおやじに過ぎない自分が、本を通じて全国の人々の役にたち、ありがとうと感謝してもらえる。こんな幸せな仕事はありません。」
私は、なかなか書店に置いていない本や、中身が確認できなくても書評を信じた本は、Amazonで購入してしまうので、書店の方には申し訳ないと思っています。今、Amazonによって既存の書店は、大型書店も含めて存続の危機に立たされています。次に危機に立つのは薬局だとも言われています。Amazonは基本的に送料がかからないために、購入する本が決まっているのであれば手間とお金がかからないので、そちらに流れてしまうのも致し方ないのかもしれません。今は、ネットで本を買っていると、その人の嗜好をAIが分析してお薦めの本を勝手に紹介してくれる便利な(気持ち悪い)世の中になりました。古書も神田やブックオフなどに行かなくても、ネットで検索して買える時代になりました。しかし、本屋や図書館で思いがけない本に出会うドキドキ感は、ネット通販にはありません。出版される本が多すぎて、巡り会えずに終わってしまうことのほうが圧倒的に多いですよね。だから、自分に合った本に出会いたいと思っている人にとっては、「1万円選書」という試みは、AIでなく人間が推薦書を選んでくれるところが人間味があっていいということで支持されたのだと思います。「これだ!」という1冊に出会うためには行動あるのみです。皆さんも、ぜひ「運命の1冊」を探してみてください。
自撮り棒の未来
皆さんが、スマホで写真を撮るときに使う「自撮り棒」が世に出てから今年で40年になるそうです。これには、私も驚きました。私が20歳の時に自撮り棒があったとは、思いもしませんでした。もっとも、出た当時は、小型カメラ(しかもデジタルでなく、フィルム式)を付けるタイプだったので、広まりませんでしたから、ほとんどの人にとっては、スマホが普及してからできたというイメージが強いと思います。
昔は、カメラは一家に1台であり、高価なものでした。個人で1台持つようになったのは、使い捨てカメラ(というより、リユースカメラ?)の「写ルンです」が出てからで、さらに小型デジタルカメラが普及してからです。カメラと言えば、自撮りするものではなく、例えば観光地などで近くの人に頼んで撮ってもらうのが普通でした。そのため近くに人がいないと、家族や友人と一緒に写ることができず、不便でした。また、昔のフィルム式カメラは、現像されて写真ができあがってこないとよく撮れているかどうかわからないので、できあがった写真を見てガッカリすることも珍しくありませんでした。今は、その場で確認できるのでいいですね。もっとも、予想以上にきれいに撮れていて感動することもなくなってしまいましたが。
自撮り棒で写真を撮るという行為は、当の日本人が広めたというより、中国人観光客によって広められた節もあるようです。一人で自分を撮るのは恥ずかしいと思う人が日本人には多かったということでしょうか。
携帯電話にカメラがついて、SNSを誰もが使うようになって、いつでもどこでも写真を撮る文化が生まれました。「インスタ映え」という言葉も生まれました。また、現像代を気にせず何枚でも写真を撮れるようになったので、整理できずに大量の写真に埋もれるようになりました。写真一枚を撮る重み、写真そのものの重みが、昔より格段に軽くなったような気がするのは、私が歳を取ったせいでしょうね。たくさん写真を撮って、ベストの一枚を選び出す。現代では、それが当たり前だし、それでいいのかもしれません。最近は、スマホのカメラの進化で、自撮り棒を見かけることが少なくなりました。そのうち、スマホに超小型ドローンカメラがついてスマホで操縦して自撮りできるようになるかもしれませんね。
今日は、自撮り棒からカメラと写真の話になりましたが、デジタル写真になって容易に編集・加工ができるようになったので、写真に騙されることも格段に多くなりました。卒業アルバムなどで編集できると都合がいい場合もありますが、撮影者、撮影日時、撮影場所が明確でない写真を安易に信じることがないように注意しましょう。もちろん、安易にSNSに写真をアップすることもしないように。一旦拡散したら回収できませんよ。
忘れてはならぬもの
今日はバレンタインデーですが、その話題はさり気なく避けて101歳の現役最高齢のピアニスト室井摩耶子さんの言葉を紹介します。「私は突然101歳になったわけじゃなくて、一日一日を精一杯生きてきて今があります。だから過去や未来ではなく、今日というこの一日を大切にしたいんです。大切な一日に死ぬ準備なんてしていられないから、終活にも、まったく興味がないんです。」テレビでは80、90歳になっても元気なお年寄りの姿をよく見ますが、みんな一日一日を大切にして年を取ったなりに人生を楽しんでいるのだと思います。「年を取ると、生きるのが仕事」と言っていた人がいましたが、「生きるのが趣味」もいいんじゃないかなと思います。
ナチスの強制収容所で瀕死のユダヤ人の少女が、「こんなにひどい目に遭わせてくれた運命に感謝している」とつぶやいたそうです。何不自由なく暮らしていた時には、これほどまで自分に向き合うことはなかったというのです。「ならぬもの十訓」の一番目に「忘れてはならぬもの…感謝」があります。あなたは、朝目覚めた時に「今日も生きている。ありがたい。」と思ったことがありますか。最近のトルコ地震で、既に1週間以上経過しているにも関わらず、瓦礫の中から子どもたちが救出されるのを見て思いました。
ビューティフルネーム
1875年(明治8年)の今日2月13日は「平民苗字必称義務令」が出され、平民も苗字を名乗ることが義務づけられた日で「苗字制定記念日」となっています。「苗字帯刀」は、江戸時代は貴族と武士の特権でしたが、1870年(明治3年)9月19日、平民が苗字を名乗ることを許可する「平民苗字許可令」が出され、この日は「苗字の日」となっています。ところが、そのころはまだ、明治新政府は国民に信用されていなかったので、苗字を付けたらそれだけ税金を課せられるのではないかと警戒し、苗字をつける人はなかなか増えませんでした。それで「平民も必ず姓を称し、不詳のものは新たにつけるように」と「平民苗字必称義務令」が制定されたのです。日本は世界の中でも苗字の数が多い国で約27万あるそうですが、明治以降に爆発的に増えました。変わった苗字が多いのもそのせいです。苗字を新しくつける(考える?)苦心談も残っています。「小鳥遊」(たかなし)や「春夏冬」(あきなし)、四月一日(わたぬき)、「神風」、「日本」など珍しい苗字はたくさんあります。だから、教員を長年やっていても初めて見る苗字や、読めない苗字はたくさんあります。近年は、それに加えて名前も読めないものが増えてきました。ちなみに、世界で一番苗字が多い国はアメリカで約150万種類あるそうです。移民の国なので世界中の苗字が集まっているのだから当然かもしれません。逆に、お隣の中国は約4000種類、韓国は約250種類と多くはありません。サッカーワールドカップで、韓国代表のゴールキーパーとディフェンダーの全員がキムという苗字で話題になりましたが、韓国では5人に1人がキムさんらしいですね。名前は、人間のアイデンティティですから大事にしたいですね。小学校で、自分の名前には親のどんな願いが込められているのかを聴き取りしてくるという宿題があるところも多いようです。皆さんは、自分の苗字と名前の意味や由来を知っていますか?
走れ!手品師
「道徳」って、皆さんはどんなイメージをもっていますか?小中学校では、どんな教材で教わりましたか?先日見たYouTubeで、道徳の授業についての相談に答えるものがありました。それは「手品師」という教材についてでした。内容を簡単に紹介します。
あるところに腕は良いがその日のパンも買うのもやっとというありさまの貧しい手品師がいた。彼は大ステージを夢見て日々腕を磨いていた。ある日、町を歩いていると小さなしょんぼりとした男の子に出会った。声をかけるとその少年は父親が死んだ後、母親が働きにでてずっと帰ってこないので寂しがっているとのこと。そこで手品師は手品を見せて喜ばせたところ、大喜びしたその少年から「明日も来てくれるか」と問われ「必ず来る」と約束して別れた。その夜、手品師のところに仲のよい友人から電話がかかってきた。その内容は、明日の大劇場で手品が催されるが、予定した手品師が急病のため代行者を探しているというものであり、友人はこの手品師を推薦したという。彼は考える。手品師として世間に認められる千載一遇のチャンスではあるが、そのためには今夜出発しなければならない。だが、明日は少年と交わした約束がある。しばしの葛藤の末、手品師は友人にこう答える。「せっかくだが先約があるので明日は行けない。」そして手品師は次の日、大劇場ではなく一人の観客のまえで手品を演じるのであった。
皆さん、授業でやった記憶がありますか?私は覚えていました。この話の道徳的価値とは何だか、わかりますよね。そう「約束」です。約束を守らない人は信用されません。社会人になれば、なおさらですが、子どもや学生なら許されるというわけではありません。有名な「走れメロス」も約束がテーマですね。高校生の皆さんなら小学生に、この「手品師」の教材を使って、どんな授業をしますか?先生が誘導したい解答ではなく、手品師が少年との約束を守らず、大劇場に行くほうを選んだとしたら、そこにどんな道徳的価値を見いだしますか。実は、この話にはもう一つの約束が隠されているというのです。これは、何か夢を叶えようとするすべての人に共通した約束です。考えてみてください。社会に出ると、学校で勉強するような正解のある問題はありません。人と協働して、最適解を探すのみです。すっきりしない、モヤっとするからこそ、終わりのない勉強が続けられるとも言えます。一方的に教えられたものは忘れてしまうことが多いですが、自分で気付いたことは忘れません。気付くためには、答えをすぐ教えてもらうのではなく悩みながら自分の頭でよく考えることが必要です。この「手品師」の話を道徳について考えられるように、大劇場へ行く話に書き直してもらうとしたら、あなたはどのように書きますか?
医学部出て漫画家
以前に「河童忌」や「桜桃忌」など文豪が亡くなった日について書いたことがありましたが、1989年(平成元年)の今日は、漫画家の手塚治虫が60歳で亡くなった日で、「治虫忌」とも呼ばれ、「漫画の日」となっています。また、1841年(天保12年)の7月17日も、イギリスの絵入り風刺週刊誌『パンチ』が発刊されたとして「漫画の日」とされています。日本史の教科書や図説に載っているので見たことがある人も多いと思います。そして、なんともう1日「まんがの日」があります。国民の祝日「文化の日」と手塚治虫の誕生日に由来して11月3日は「まんがの日」です。手塚治虫は、存命中から「漫画の神様」と称され、代表作に『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『火の鳥』『ブッダ』『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『アドルフに告ぐ』などがあります。皆さんは、読んだことがあるでしょうか。『ブッダ』『ブラック・ジャック』『アドルフに告ぐ』などは、学校や公立の図書館に置いてあるところも多いと思います。
昭和46年(1971年)から少年ジャンプで少年向けストーリー漫画の新人募集企画として「手塚賞」が開催されています。多くの漫画家を排出していますが、知名度が高いのは、『ONE PIECE』の尾田栄一郎氏、『SLAM DUNK』の井上雄彦氏でしょうか。漫画家を目指している人は、たくさんいるでしょうし、ウェブコミックの隆盛で漫画家の数も昔とは比較にならないほど増えています。しかし、その中で漫画家として生活していける人は、ほんの一握りです。ミュージシャンと同じく厳しい世界です。ストーリーを考え、キャラクターを設定し、絵コンテを描き、下書きをし、ペン入れをし、トーンを貼り、背景を描き、ホワイトを入れて完成まで、小説家と画家、映画監督を一人でこなすようなものです。今はデジタルで作成している人が多いでしょうから、昔よりは修正が楽になっていると思いますが。ですから、『君の名は。』で全国的に有名になった新海誠さんはすごいです。なにしろ、彼が2002年に発表した、約25分のフルデジタルアニメーションの短編『ほしのこえ』は約8ヵ月間部屋にこもりながら、 監督・脚本・演出・作画・美術・3DCG・撮影・編集・声の出演とほとんどの作業を1人でこなし、自宅のパソコンを使って作り上げたものだからです。売れている漫画家は例外なく読書家であり、映画を多く見ているそうですが、つまり面白い話と構成・構図を考えるためには、勉強し続けること、新しい情報を仕入れ、色々な体験をすること、感性を磨くことが必要不可欠だということです。一発屋はミュージシャンだけでなく漫画家にも多いです。それくらい、面白い漫画を作り続けることは非常に困難だということです。スポーツ選手や絵や音楽などの表現者になるには、才能と努力が必要です。好きなことを職業にできることは、非常に幸せなことですが、苦しむことも多々あります。それでも一度きりの人生ですから、覚悟を決めてチャレンジするのもありですね。「医者は生活の安定を約束していた。しかし、僕は画が描きたかったのだ。」という言葉を手塚治虫は残しています。「やらないで後悔するより、やって後悔したほうがよい」という意味の言葉を世界の優れた先人たちが残してくれています。あなたは、どうしますか?
〇〇バイアスの打破!
日本教育新聞の「管理職の独り言」という連載コラムに、「学校バイアスを見直す」というテーマの文がありました。バイアスとは、簡単に言うと「思い込み」です。バイアスと言えば東日本大震災などの災害時にテレビなどで解説される「そんな災害は起こらないであろう」と考えて判断を誤る正常性バイアスと、「他の人も逃げていないから、まだ大丈夫」と考えて逃げ遅れる同調性バイアスが有名ですね。タイトルの「学校バイアス」には、「生徒は学校行事が好き(特に体育的)」や「校則を緩めると学校が荒れる」などがあるそうです(筆者の考えでは)。スポーツが苦手な筆者は、句会や茶会や読書会とかやってくれないかな…と思えど叶わなかったそうです。体育的行事にしろ、音楽的行事にしろ、旅行的行事にしろ、苦手な生徒が一定数いることは否定できません。筆者は中学校長ですが、生徒に「みんなが楽しめる」というコンセプトを伝え、企画を考えさせると、「学校の大人のバイアス」を壊すアイデアが次々出てきたそうです。
皆さんなら、どんな学校行事もしくはクラス行事を考えますか。もちろん、どんな教育的意義や効果があるかを説明できなければいけませんよ。学校生活は、主に授業・学校行事・委員会活動・HR活動・部活動で成り立っていますが、楽しく意義あるものにするには、〇〇バイアスを疑って、自分の頭で考え、みんなで対話することが大事です。近年、話題になっている「女性は理数系が苦手」もバイアスですね。
未来の、そして現在の太東生へ
本日、高校入試の前期選抜の入学願書の受付が終了しました。明日の朝刊で各校の志願状況が判明します。自分が受ける高校の志願倍率が気になっている受検生もたくさんいると思います。本校を志願してくれている受検生の皆さん、今まで培った力を十二分に発揮できるように、万全の体調で来週の本番に臨んでください。後期選抜はないものと考え、背水の陣で自分の力を目いっぱい引きずりだそうという心構えで取り組んでください。それが、今後に生きてきます。検査室に入るまで、自分は伸びると信じて、あと5日間を頑張って過ごしてください。受検当日、問題用紙を開くときに、「多くの仲間に支えられ、ずっと励まし合ってやってきた」そして、「自分は一人じゃないんだ」と思えることで、より力が発揮できると思います。皆さんが、試験終了後に「力を出し切った」と晴れ晴れとした顔で帰路につけるように願っています。3年次生の皆さんも、受験真っ只中で頑張っていると思います。未来の、そして現在の太東生、「ガンバレ!」
福、呼び込みたいですか?
今日は節分ですね。節分といえば普通は2月3日のことを指しますが、もともとは季節の始まりである立春(2月4日頃)・立夏(5月5日頃)・立秋(8月7日頃)・立冬(11月7日頃)の前日を指す言葉です。節分は、季節を分けるという意味でもあるんですね。節分は、旧暦の立春が新年であったため、その前の日に邪気を払う目的で始まったのだそうです。 年の変わり目に邪気を払い、1年の無病息災を願って豆まきをしたり、恵方巻やイワシを食べたりするのが風習として今も残っているのです。
私が子どものころは、節分には雪が降ることが多かった記憶がありますが、温暖化のせいなのか雪自体が最近は降りませんね。今日は「のり巻きの日」(1987制定)「巻きずしの日」(2011制定)でもあるそうですが、節分と「恵方巻」がセットになっているようですね。バレンタインデーやホワイトデー、ハロウィン、「いい夫婦の日」「孫の日」などと同様に、業界の戦略がまんまと当たったようです。恵方巻きは、江戸時代から明治時代にかけての大阪で、商売繁盛を祈ったりしたのが発祥といわれています。節分の日に巻寿司を恵方(その年の縁起のよい方向)に向かって丸かぶりすると幸福が訪れると言われていることから記念日を制定しました。1989年に、某コンビニエンスチェーンが広島県で太巻きを売りだした際に、「恵方巻き」と名前をつけ、販売を始めたというのが、全国に広まるきっかけだったようです。私の実感としては、我が家で恵方巻を食べるようになったのは、ここ10年くらいからだったような気がしますが、正確にはわかりません。ここ数年、帰宅時に恵方巻難民になって買うのに苦労していますが、今年は買うかどうか悩んでいます。
皆さんの家では、豆まきをしているでしょうか。我が家では、毎年4人で豆まきをしています。もう27年目になります。鬼役は私で、鬼のお面をかぶって豆をぶつけられて玄関とリビングから追い出されています。「鬼は外、鬼は外、福は内」と豆(煎った大豆)をまいて、邪気を祓った後に、年齢の数だけ豆を食べて、1年間の幸せを祈る行事ですが、さすがに60個の味付けのない豆を食べるのは、きついですね。 豆には米と同じようにエネルギー源として霊力が宿っていると考えられていたから、食べるようです。
これからどんどんAIが発達して世の中が変化しても、日本の伝統行事にはどんな意味があるかを知ることは、大切なことだと思います。国際化とかグローバル化とか言われるようになって久しいですが、自国のことをよく知っていることが前提なのを忘れないでください。鬼についても書きたかったのですが、字数が増えてしまったので、別の機会にします。